リディア王国を併合

ペルシア戦争の直接の原因は、アケメネス朝(以下、ペルシア)の影響力拡大に対するイオニア地方の都市国家群の反発から起こったイオニアの反乱へのアテナイの介入である。
当時のペルシアは絶頂期にあった。キュロス2世が、紀元前547年に小アジア随一の強国であったリディア王国を併合、ダレイオス1世はトラキアマケドニア王国を勢力下に置いた。紀元前518年、リディア王国の首都であったサルディスに「サトラップ」と呼ばれる総督を置き、アナトリア半島全域とレスボス島、キオス島、サモス島などのエーゲ海東部の島嶼をその支配下に置いた。ダレイオス1世は政治の力点を経済活動に置き、「王の道」を整備するとともに、金貨を鋳造して交易を積極的に推進した。彼の治世においてペルシアは最盛期を迎え、帝国の領土的野心も膨らんだ。こうした情勢下、ギリシア本土の諸都市にペルシアの影響が及ぶのは時間の問題だった。
ギリシア側で主導的役割を果たしたアテナイは、紀元前6世紀 末から紀元前5世紀中期までの政治状況の資料が少ないため判然としないが、紀元前6世紀中期からようやく有力なポリスになり始めていた。小アジアに陶器とオリーブ油を輸出する一方、人口の増加にともなって黒海沿岸から多量の穀物を輸入するようになったと考えられている。
穀物輸入を容易にするためには、アテナイ近傍のファレロン湾の利用が急務であったが、この海域ではアイギナによる海賊行為が横行しており、アテナイとアイギナ、アイギナを保護するアルゴスとの関係は険悪であった。また、政治体制を貴族政から民主制に移行させたことによって、アテナイはスパルタに対抗しうる強力な国家へ成長することに成功したが、同時にスパルタと同盟諸都市に対して警戒心を抱かせることにもなった。北方のボイオティアとも戦争状態にあり、アテナイは文字通り四面楚歌の状況にあった。
この孤立状態を打開するため、アテナイから、おそらくはクレイステネスによって、ペルシアのサルディス総督アリスタゴラスのもとに使者が送られた。アテナイの使者はペルシアとの同盟を求めたが、ペルシアが完全な服従を求めたため、アテナイ民会はこれに反発した。当時のアケメネス朝による統治政策は、各都市国家に傀儡の僭主を擁立し、彼らを介して内政に干渉するというものであったが、民主制をとるアテナイに受け入れられるものではなかった。また、穀物輸入の交易路にペルシアの影響が及ぶことへの懸念もあったと考えられる。同盟交渉は決裂した。こうした経過を経て、アテナイ民会は、直接的な対立を避けつつも、ペルシアに対して危機感を募らせていた。