ヘロドトス 歴史 巻一 クレイオの巻

ヘロドトス 歴史 巻一 クレイオの巻

 八六 こうしてペルシア軍はサルディスを占領し、クロイソス王その人を捕虜にしたのであるが、クロイソスは在位十四年、攻囲をうけること十四日間、そして神託通り自分の大帝国に終止符を打ったのである。

 一三〇 こうしてアステュアゲスは在位三十五年で王位を失い、メディアはアステュアゲスの苛酷さが災いをなしてペルシアに屈伏することになったが、ハリュス河より上(東方)のアジア一帯のメディアによる支配は、スキュティア人の支配期間をも含めて、百二十八年に及んだ。もっとも後になってメディア人は以前の行動を悔い、ダレイオスから離反したが、戦いに敗れ再び屈服させられてしまった。


中期・小国外交の時代
この邲の戦い以降は諸侯同士の争いは少なくなる。その理由は、諸侯の下にいた大夫・士と呼ばれる中級から下級の貴族階級が勃興して、彼らに諸国の実権が移り、他国との争いよりも国内での同格の貴族たちとの争いに忙しくなったからである。
これら諸国の実権を握った貴族としては、晋の六卿(智・魏・韓・趙・中行・士(范)の六氏)、斉の六卿(国・高・鮑・崔・慶・陳(田)の六氏)、魯の三桓(仲(孟)・叔・季の三氏)、鄭の七穆(罕・駟・豊・游・印・国・良の七氏)などがいる。彼らは互いに争うこともあれば、同盟を結んで他の貴族と対立することもあり、時には君主とも対立し、君主を殺害するようなこともあった。これらの現象は伝統的な身分体制の崩壊も表している。この時期に儒教を起こした孔子もこのような伝統体制の崩壊に対する憤慨がその学の源となったとも考えられている。
こういった背景から国同士の対立をあまり望まれなくなり、紀元前546年に弭兵の会が晋と楚の間で行われた。弭兵とは戦いを止めるということである。
貴族たちの伸張はそれまであまり国政の座に就くことのなかった出自の者たちを国政の舞台に押し上げ、この時期には名宰相と呼ばれる者が多く出る。代表的なものに斉の晏嬰・鄭の子産・晋の羊舌肸(叔向)などがいる。また大国同士が直接ぶつかりあうことが避けられたため、鄭の子産や魯の孔子などの活躍する小国外交が活発になった。子産は中国初の成文法を制定したことで有名である。この子産の行動についても、法律はそれまで上流階級の中で暗黙の了解で行われていたが、新しく勃興してきた層階級の人間たちにはそれが不満であったので、法律を形に残るようにしなければいけなくなったと考えられる。
この頃になると君主は貴族たちの顔色を窺わなければ立ち行かなくなり、晋では先述の六卿から2つが脱落した知・魏・韓・趙の4氏に完全に牛耳られ、斉ではかつて陳より亡命してきた田氏の力が非常に大きくなり、楚では有力貴族と王族との争いで国政は混乱した。