ベレニケ1世(紀元前340年から紀元前268年)

ベレニケ1世(紀元前340年 - 紀元前279年から紀元前268年)は、マケドニア朝ギリシアの貴族であり、プトレマイオス1世と結婚してプトレマイオス朝エジプトで最初の女王となった。

もとはEordeaeの生まれである。父はメガス、母はアンティゴネという名前が伝わっているが、2人とも地方の貴族で身分が高いわけではなかった。母方の祖父はカッサンドロスという名の貴族で、マケドニア摂政だったアンティパトロスの弟であったために摂政の家とはつながりを持っていた。

紀元前325年、ベレニケ1世は地方の貴族でありピリッポスという名の軍人と結婚する。プルタルコスのほのめかすところでは、ピリッポスは過去にも結婚しており、すでに子供もいたが[2]、ベレニケ1世とも子をもうけている。息子はキュレネの王メガス、娘はエピロス王ピュロスの妻の1人となるアンティゴネ、もう1人の娘はシラクサのテオクセニアと呼ばれた。

メガスはアポロの司祭として奉仕していたときに、自身とその父にあてた献詞を残している。またピュロスはベレニケ1世の名前を新たな都市に冠してベレニキスと呼ばせた。

最初の夫ピリッポスが死んだ後、母の最初のいとこであるエウリュディケ(前述のアンティパトロスの娘)の侍女であったベレニケは、子供たちを連れてエジプト中を巡ることになる。このエウリュディケはプトレマイオス1世の妻でもあった。プトレマイオス1世アレクサンドロス大王に仕える将軍の1人であり、古代エジプトプトレマイオス朝を創始した人物である。プトレマイオス1世の目にとまったベレニケはそのまま紀元前317年に結婚する。アルシノエ2世とフィロテラという2人の娘とプトレマイオス2世を2番目の夫との間にもった。

時代ははっきりしないが、オリュンピアの時期にベレニケ1世は戦車競走を観覧したという記録もある。彼女の息子プトレマイオス2世は父に反抗的だったエウリュディケの子(プトレマイオス・ケラウノス)よりも目をかけられ、紀元前285年には父の後継者とみなされて共同統治者となった。ベレニケ1世の死後、プトレマイオス2世と後のプトレマイオス4世フィロパトルが勅令を出して先の女王を神格化したという逸話は、テオクリトスの「イディル」にもみられる。また紅海に港が建てられ、ベレニケと名づけられている。