燕・趙・韓・魏・楚の5カ国連合軍に斉が大敗

後期
この二強国時代は、紀元前284年の楽毅を大将とする燕・趙・韓・魏・楚の5カ国連合軍に斉が大敗し、首都臨淄を陥とされ、莒と即墨以外の全ての邑は占領されたことで終わりを告げる。湣王は、国外へ逃亡した後、莒に戻ったが楚の将軍で斉の宰相になった悼歯に殺され、皮肉なことにかつての燕のように王がいない状態となった。のちに田単により復興はするものの、国力を大幅に消耗した。
斉の凋落により、中国は秦による一強国時代となる。秦は、名将・白起を使って諸国に苛烈な攻撃を加え、紀元前260年には長平の戦いで趙に大勝し、45万と言う将兵を一度に殺した。また紀元前256年に東周を滅ぼす。
この中で紀元前247年に政が秦王に即位する。のちの始皇帝である。政は、李斯の政策の下で法治主義・権力集中をさらに進め、外征面では王翦・王賁親子や李信などを起用した。まず紀元前230年に韓を滅ぼし、続いて紀元前228年に趙、紀元前225年に魏、紀元前223年に楚、紀元前222年に燕、そして紀元前221年に斉を滅ぼし、天下を統一。ここに戦国時代は終結し、中国史上初めての統一王朝が誕生した。


アルシノエ1世(ギリシア語: Αρσινόη Α’ 紀元前305年 - およそ紀元前248年以降)はプトレマイオス朝エジプトの王妃・女王(ファラオ・共同統治者)である。

マケドニア人とテッサリア人を祖にもつギリシア人であり、トラキア小アジアマケドニアの王であったディアドコイリュシマコスと、その最初の妻である王妃ニケアの次女として生まれた。一番下の子でもあり、兄をアガトクレス、姉をエウリュディケと言った。

父方の祖父はマケドニア王ピリッポス2世と同時代人の貴族であるペラのアガトクレスで、母方の祖父は権勢を誇った摂政のアンティパトロスである。アルシノエという名は祖母にちなんでつけられたもので、すなわちリュシマコスの母かニケアの母のどちらかであるが両者とも名前は伝わっていない。またアルシノエ1世の結婚以前についてもほとんど知られていない。

紀元前289年から281年ごろに、アルシノエ1世はプトレマイオス朝ギリシアのファラオ、プトレマイオス2世ピラデルポスの最初の妻となった。この結婚は母方の遠い親戚に嫁ぐものであり、さらにはセレウコス1世に対抗するため父親とプトレマイオス2世が結んだ同盟の延長でもあった。

しかしアルシノエ1世はこの結婚を通じてプトレマイオス朝の女王となり、プトレマイオス2世との間に3人の子をもうけている。息子のプトレマイオス3世エウエルゲテスとリュシマコス、娘のベレニケである。そして日時は定かでないものの紀元前279年から紀元前273年ごろまでに、プトレマイオス2世の姉でありリュシマコス王の最後の妻であるアルシノエ2世がエジプトを訪れる。前夫であった異母弟のプトレマイオス・ケラウノスのもとから逃れてきたのであった。ほどなくして、おそらくはこのアルシノエ2世がそそのかしたために、プトレマイオス2世は自分の暗殺を企てたとしてアルシノエ1世を咎め立てるのである。

プトレマイオス2世はアルシノエ1世が謀ったものとして罪した。そのまま離婚が決り、アルシノエ1世は子供もろとも南のコプトスへと追放された。一連の出来事がプトレマイオス2世の姪セオクセニアのテバイス追放とつながっていることから、時系列からいって平仄が合っている。その後プトレマイオス2世は姉であるアルシノエ2世と結婚し、プトレマイオス3世をはじめ先妻のアルシノエ1世との子はアルシノエ2世が育てた。そして死後には正式にアルシノエ2世の子とみなされた。

アルシノエ1世は流刑地で20年を過ごした。その間も堂々たる暮らしぶりであり、大いに権力を振るった。アルシノエ1世はかつてのファラオの妻であったが、プトレマイオス2世との最初の子は、父が亡くなるとその後を継いだ。

今もなおコプトスにはアルシノエ1世の人となりを語る碑文が残っている。これはアルシノエの家令であった人物の手によるものであろ、同時に彼はアルシノエ1世に追放されたのだとされている。彼はアルシノエ1世を「王の妻」と呼んでいるが、その名はエジプトの女王の常であるように王家のカルトゥーシュで囲まれてはいない。他にアルシノエ1世につながる断片的な現存する資料として、キプロスのラピトスにあるフェニキア語の碑文がある。こちらは年代としては、プトレマイオスの治世が始まって11年か12年目にあたるものである。これは「正当なる相続者とその妻」のために設けられた供犠について述べており、ここからアルシノエ1世のことだとされた。アルシノエ1世が裏切り者として貶められていた一方で、そのために生け贄をささげた人物がいたという事実は、その知らせがまだこの地に届いていなかったことをよく示している。