焚書

胡の討伐が成功裏に終わり開かれた祝賀の席が、焚書の引き金になった。臣下や博士らが祝辞を述べる中、博士の一人であった淳于越が意見を述べた。その内容は、古代を手本に郡県制を改め封建制に戻すべしというものだった。始皇帝はこれを李斯の諮問へ掛けたが、元よりも郡県制を推進した李斯が意見に利を認めるはずが無かった。そして始皇帝自身も旧習を否定する思想に染まっていた。信奉した『韓非子』「五蠹」には「優れた王は不変の手法ではなく時々に対応する。古代の例にただ倣う事は、切り株の番をするようなものだ」と論じられている。こういった統治者が生きる時代背景に応じた政治を重視する考えを「後王思想」と言い、特に儒家の主張にある先王を模範とすべしという考えと対立するものだった。始皇帝自身がこの思想に染まり、自らの治世を正しいものと考えていた事は、巡遊中の各刻石の文言からも読み取れる。
既に郡県制が施行されてから8年が経過した中、淳于越がこのような意見を述べ、さらに審議された背景には、体制の問題点が意識されていたか、または先王尊重の思想を持つ集団が依然として発言力を持っていた可能性が指摘される。しかし始皇帝の決定はきわめて反動的なものであった。『韓非子』「姦劫弒臣」には「愚かな学者らは古い本を持ち出しては喚き合うだけで、目前の政治の邪魔をする」とある。始皇34年(前213年)、李斯はこのような妄言の根拠となる「古い本」すなわち占星学・農学・医学・占術・秦の歴史を除く全ての書物を焼き捨てる建策を行い認められた。特に『詩経』と『書経』の所有は、始皇帝の蔵書を除き厳しく罰せられた。この焚書は、旧書体を廃止し篆書体へ統一する政策の促進にも役立った。