史記 始皇本紀第六

史記 始皇本紀第六

 三十五年、道を除い、九原(陝西・楡林の北)から雲陽(陝西・淳化)まで、山をきり谷をうずめて、道路を直通した。

 始皇は二人が逃げたと聞くと大いに怒り、「わしはさきに天下の書物を集め、役にたたないものはことごとく焼きすて、文字方術の士を多く用いて、太平を興そうとした。方士は金を練って奇薬を作ると言っていたのに、いま韓衆(侯生・櫨生らはもとの韓の国の者であったので韓衆という)が逃げ出して何の消息もない。また徐市らに費やした金は巨万に達するのについに仙薬を得ることができず、ただ彼らが姦利を貪っていると告げる声が、毎日耳に入るだけだ。櫨生らにはずいぶん手厚く賞賜したはずだのに、いまかえってわしを誹謗し、重ねてわが不徳を天下に吹聴するとは不都合極まる。わしが咸陽にいる諸生を調べさしたところ、妖言を言い触らし、黒首を惑わしているものがある」と言って、御史に命じ、諸生をみな調べ上げさした。諸生たちは、これを聞くとたがいに罪をなすりあい、自分だけ言い逃れようとした。かくて禁令を犯したもの四百六十余人を、みな咸陽で穴埋めにして天下に知らせ、のちの懲らしめとした。また、ますます罪人を摘発し辺境にうつした。


咸陽と阿房宮
始皇帝は各地の富豪12万戸を首都・咸陽に強制移住させ、また諸国の武器を集めて鎔かし十二金人を製造した。これは地方に残る財力と武力を削ぐ目的で行われた。咸陽城には滅ぼした国から鐘鼓や美人などが集められ、その度に宮殿は増築を繰り返した。人口は膨張し、従来の渭水北岸では手狭になった。
始皇35年(前212年)、始皇帝は皇帝の居所にふさわしい宮殿の建設に着手し、渭水南岸に広大な阿房宮建設に着手した。ここには恵文王時代に建設された宮殿があったが、始皇帝はこれを300里前後まで拡張する計画を立てた。最初に1万人が座れる前殿が建設され、門には磁石が用いられた。居所である紫宮は四柱が支える大きなひさし(四阿旁広)を持つ巨大な宮殿であった。
名称「阿房」の由来には諸説あり、「阿」が近いという意味から咸陽近郊の宮を指すとも、四阿旁広の様子からつけられたとも、始皇帝に最も寵愛された妾の名とも言われる。

坑儒
始皇帝は「後王思想」で言う批判を許さない君主の絶対的基準となった。ここにまたも方士らが取り入り、廬生は「真人」を説いた。真人とは『荘子』「内篇・大宗師」で言う水で濡れず火に焼かれない人物とも、「内篇・斉物論」で神と言い切られた存在を元にする超人を指した。廬生は、身を隠していれば真人が訪れ、不老不死の薬を譲り受ければ真人になれると話した。始皇帝はこれを信じ、一人称を「朕」から「真人」に変え、宮殿では複道を通るなど身を隠すようになった。ある時には居場所を李斯に告げられたと疑い、周囲にいた宦者らすべてを処刑した事もあった。
しかし「阿諛茍合」の類である真人の来訪など決して無く、やがて粛清を恐れた廬生は方士仲間の侯生とともに始皇帝の悪口を吐いて逃亡した。これを知り激怒した始皇帝は学者を疑い尋問にかけた。彼らは言い逃れに他者の誹謗を繰り返し、ついには約460人が拘束されるに至った。始皇35年(前212年)、始皇帝は彼らを生き埋めに処し、これがいわゆる坑儒であり、前掲の焚書と合わせて焚書坑儒と呼ばれる。『史記』には、学者らを「諸生」と表記しており様々な学派の人間が対象になったと考えられるが、この行為を唯一諌めた長子の扶蘇の言「諸生皆誦法孔子」から、儒家の比率が高かったものと考えられる。
讒言を不快に思った始皇帝扶蘇に、北方を守る蒙恬を監察する役を命じ、上郡に向かわせた。『史記』は、始皇帝が怒った上の懲罰的処分と記しているが、陳舜臣は別の考えを述べている。30万の兵を抱える蒙恬匈奴と手を組み反乱を起こせば、統一後は軍事力を衰えさせていた秦王朝にとって大きな脅威となる。蒙恬を監視し抑える役目は非常に重要なもので、始皇帝扶蘇を見込んでこの大役を任じたのではないかという。いずれにしろこの処置は秦にとって不幸なものとなった。
坑儒について、別な角度から見た主張もある。これは、お抱えの学者たちに不老不死を目指した錬金術研究に集中させる目的があったという。処刑された学者の中には、これら超自然的な研究に携わった者も含まれる。坑儒は、もし学者が不死の解明に到達していれば処刑されても生き返る事ができるという究極の試験であった可能性を示唆する。