第8代 孝元天皇 前214年1月14日〜前158年9月2日

古事記 中の卷
二、綏靖天皇以後八代
孝元天皇
――タケシウチの宿禰の諸子をあげているのは豪族の祖先だからである。――
 オホヤマトネコ彦クニクルの命(孝元天皇)、大和の輕の堺原の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇は穗積の臣等の祖先のウツシコヲの命の妹のウツシコメの命と結婚してお生みになつた御子は大彦の命・スクナヒコタケヰココロの命・ワカヤマトネコ彦オホビビの命のお三方です。またウツシコヲの命の女のイカガシコメの命と結婚してお生みになつた御子はヒコフツオシノマコトの命お一方です。また河内のアヲタマの女のハニヤス姫と結婚してお生みになつた御子はタケハニヤス彦の命お一方です。この天皇の御子たち合わせてお五方いつかたおいでになります。このうちワカヤマトネコ彦オホビビの命は天下をお治めなさいました。その兄、大彦の命の子タケヌナカハワケの命は阿部の臣等の祖先です。次にヒコイナコジワケの命は膳かしわでの臣の祖先です。ヒコフツオシノマコトの命が、尾張おわりの連の祖先のオホナビの妹の葛城かずらきのタカチナ姫と結婚して生んだ子はウマシウチの宿禰すくね、これは山代の内の臣の祖先です。また木の國の造の祖先のウヅ彦の妹のヤマシタカゲ姫と結婚して生んだ子はタケシウチの宿禰です。このタケシウチの宿禰の子は合わせて九人あります。男七人女二人です。そのハタノヤシロの宿禰は波多の臣・林の臣・波美の臣・星川の臣・淡海の臣・長谷部の君の祖先です。コセノヲカラの宿禰は許勢の臣・雀部の臣・輕部の臣の祖先です。ソガノイシカハの宿禰蘇我の臣・川邊の臣・田中の臣・高向たかむくの臣・小治田おはりだの臣・櫻井の臣・岸田の臣等の祖先です。ヘグリノツクの宿禰は、平群の臣・佐和良の臣・馬の御みくいの連等の祖先です。キノツノの宿禰は、木の臣・都奴の臣・坂本の臣の祖先です。次にクメノマイト姫・ノノイロ姫です。葛城の長江のソツ彦は、玉手の臣・的いくはの臣・生江の臣・阿藝那の臣等の祖先です。次に若子の宿禰は、江野の財の臣の祖先です。この天皇は御年五十七歳、御陵は劒の池の中の岡の上にあります。


孝元天皇孝霊天皇18年(紀元前273年)- 孝元天皇57年9月2日(紀元前158年10月14日))は、『古事記』『日本書紀』に記される第8代天皇(在位:孝元天皇元年1月14日(紀元前214年2月21日) - 同57年9月2日(紀元前158年10月14日))。大日本根子彦国牽尊・大倭根子日子国玖琉命(古事記)。
「ヤマトネコ」という称号は7代孝霊・8代孝元・9代開化、少し離れて22代清寧の諸天皇(『古事記』)に見え、『記・紀』の編纂が最終段階に入った7世紀末から8世紀初めに存在した持統・文武・元明・元正の諸天皇(『日本書紀』・『続日本紀』)の称号にも見える。このことは、7,8,9代の天皇の称号を、後世の『記・紀』編纂最終段階に存在した天皇の称号に似せて造作したという疑いが濃厚である。
いわゆる欠史八代の1人で、実在しない天皇と捉える見方が一般的であったが、稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣に孝元天皇の第一皇子大彦命の実在を示す系譜が刻まれていたことから、孝元天皇自身も実在の人物とみなす見方も出てきている。


霊渠
中国南部の有名なことわざに「北有長城、南有靈渠」というものがある。始皇33年(前214年)、始皇帝は軍事輸送のため大運河の建設に着手し、中国の南北を接続した。長さは34kmに及び、長江に流れ込む湘江と、珠江の注ぐ漓江との間を繋いだ。この運河は中国の主要河川2本を繋ぐことで秦の南西進出を支えた。これは、万里の長城四川省の都江堰と並び、古代中国三大事業のひとつに挙げられる。