〔一〕神武天皇の東征

日本書紀 巻第三

神日本磐余彦天皇 神武天皇

〔一〕神日本磐余彦天皇は緯(実名)を彦火火出見といい、鸕鷀草葺不合尊の第四子である。母は玉依姫といい、海神豊玉彦の二番目の娘である。天皇は生まれながらにして賢い人で、気性がしっかりしておられた。十五歳で皇太子となられた。成長されて、日向国吾田邑の吾平津媛を娶って妃とされた。手研耳命を生まれた。四十五歳になられたとき、兄弟や子どもたちに言われるのに、「昔、高皇産霊尊天照大神が、この豊葦原瑞穂国を、祖先の瓊瓊杵尊の授けられた。そこで瓊瓊杵尊は天の戸をおし開き、路をおし分け先払いを走らせておいでになった。このとき世は太古の時代で、まだ明るさも充分ではなかった。その暗い中にありながら正しい道を開き、この西のほとりを治められた。代々父祖の神々は善政をしき、恩沢がゆき渡った。天孫が降臨されてから、百七十九万二千四百七十余年になる。しかし遠い所の世界では、まだ王の恵みが及ばず、村々はそれぞれに長があって、境を設けて相争っている。さてまた塩土の翁に聞くと『東の方に良い土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天の磐舟に乗って、とび降ってきた者がある』と。思うにその土地は、大業をひろめ天下を治めるによいであろう。きっとこの国の中心地だろう。このとび降った者は、饒速日というものであろう。そこに行って都をつくるにかぎる」と。諸皇子たちも「その通りです。私たちもそう思うところです。速かに実行しましょう」と申された。この年は太歳の甲寅である。
 その年の冬十月の丁巳朔の辛酉(五日)に、天皇は自ら諸皇子・舟軍を率いて、東征の途に就かれた。速吸之門に着かれた時に、一人の漁師がいて、小舟に乗って近づいて来た。天皇はこれをお召しになり、そして、問うて、「お前は誰か」と仰せられた。答えて、「私は国神で、珍彦と申します。曲浦で魚釣をしていますと、天神の御子がおいでになると承りましたので、とくにお迎えに参上いたしました」と申しあげた。また問われて、「お前は私のために先導してくれるか」と仰せられた。答えて、「ご先導いたしましょう」と申しあげた。天皇は勅して、漁師に椎竿の先を差し渡して摑まえさせ、皇舟に引き入れて水先案内とされ、とくに椎根津彦という名を与えられた〔「椎」はここではシヒという〕。これは倭直部の始祖である。そこから進んで筑紫国の菟狭に到着された〔「菟狭」は地名である。ここではウサという〕。時に、菟狭国造の祖がいた。名を菟狭津彦・菟狭津媛という。その者が菟狭川の川上に一柱騰宮を造って、ご馳走を差し上げた〔「一柱騰宮」はここではアシヒトツアガリノミヤという〕。この時、天皇は勅して、菟狭津媛を従臣の天種子命に娶せられた。天種子命は中臣氏の遠祖である。



古事記 中巻
神武天皇
〔一〕東征 神倭伊波礼毘古命神武天皇)は、その同母兄の五瀬命とともに二柱で高千穂宮におられ、ご相談なされて、「いったいどこの地にいたならば、平安に天下の政を治めることができるだろうか。やはり東の方に都の地を求めて行こうと思う」と仰せられて、さっそく日向をおたちになって、筑紫国においでになった。その途中、豊国の宇沙にご到着になった時、その国の土豪で名を宇沙都比古・宇沙都比売という二人が、足一謄宮を造ってお迎えし、ご馳走を差し上げた。さらにそこからお移りになって、筑紫の岡田宮に一年間ご滞在になった。またその国からお上りになって、安芸国の多祁理宮に七年間ご滞在になった。またその国から移りお上りになって、吉備の高島宮に八年間ご滞在になった。そしてさらにその国からお上りになった時、亀の甲に乗って釣をしながら左右の袖をはばたいて来る人に、潮流の速い海峡の速吸門でお会いになった。そこで伊波礼毘古命がその人を呼び寄せて、「おまえは誰か」とお尋ねになると、「私は国つ神です」とお答え申し上げた。また「おまえは海路を知っているか」とお尋ねになると、「よく存じております」とお答え申し上げた。さらに「私に従って仕え申すか」とお尋ねになると、「お仕え申し上げましょう」とお答え申し上げた。それで棹を先方にさし渡し、そのお船に引き入れて、そして名前をお与えになって、槁根津日子とお名づけになった〔この者は大和国造らの祖先〕。

〔二〕熊野の高倉下
〔三〕八咫烏の先導
〔四〕兄宇迦斯と弟宇迦斯
〔五〕久米歌
〔六〕皇后の選定
〔七〕多芸志美美命の反逆