パルティア(紀元前247年 - 228年)

アルサケス1世 (前247年 - 前211年)
ティリダテス1世 (前246 - 前211年)
アルサケス2世 (前211年 - 前191年)
フリアパティウス (前191年 - 前176年)
フラーテス1世 (前176年 - 前171年)
ミトラダテス1世 (前171年 - 前138年)
フラーテス2世 (前138年 - 前127年)
アルタバヌス1世 (前127年 - 前124年)
ミトラダテス2世 (前123年 - 前88年)
ゴタルゼス1世 (前95年 - 前90年)
オロデス1世 (前90年 - 前80年)
(前80年)
(前80年 - 前70年)
シナトルケス (前77年 - 前70年)
フラーテス3世 (前70年 - 前57年)
ミトラダテス3世 (前57年 - 前54年)
オロデス2世 (前57年 - 前38年)
パコルス1世 (前39年 - 前38年)
フラーテス4世 (前38年 - 前2年)
ティリダテス2世 (前30年 - 前26年)
フラーテス5世 (前2年 - 4年)
ムサ (前2年 - 4年 フラーテス5世の母であり妻)
オロデス3世 (6年)
ヴォノネス1世 (6年 - 12年)
アルタバヌス2世 (10年 - 38年)
ティリダテス3世 (35年 - 36年)
キンナムス (37年)
ヴァルダネス1世 (40年 - 47年)
ゴタルゼス2世 (40年 - 51年)
サナバレス (50年 - 65年)
ヴォノネス2世 (51年)
ヴォロガセス1世 (51年 - 78年)
ヴァルダネス2世 (55年 - 58年)
ヴォロガセス2世 (77年 - 80年)
パコルス2世 (78年 - 105年)
アルタバヌス3世 (80年 - 90年)
ヴォロガセス3世 (105年 - 147年)
オスロエス1世 (109年 - 129年)
パルタマスパテス (116年)
ミトラダテス4世 (129年 - 140年)
(140年)
ヴォロガセス4世 (147年 - 191年)
オスロエス2世 (190年)
ヴォロガセス5世 (191年 - 208年)
ヴォロガセス6世 (208年 - 228年)
アルタバヌス4世 (216年 - 224年)


始皇帝
始皇帝は秦王に即位した紀元前247年には自身の陵墓建設に着手した。それ自体は寿陵と呼ばれ珍しい事ではないが、陵墓は規模が格段に大きかった。阿房宮の南80里にある驪山(所在地:北緯34度22分52.75秒 東経109度15分13.06秒 )が選ばれ始められた建設は、統一後に拡大された。
木材や石材が遠方から運ばれ、地下水脈に達するまで掘削した陵の周囲は銅で固められた。その中に宮殿や楼観が造られた。さらに水銀が流れる川が100本造られ、「天体」を再現した装飾がなされ、侵入者を撃つ石弓が据えられたという。珍品や豪華な品々が集められ、俑で作られた官臣が備えられた。これは、死後も生前と同様の生活を送ることを目的とした荘厳な建築物であり、現世の宮殿である阿房宮との間80里は閣道で結ばれた。
1974年3月29日、井戸堀りの農民たちが兵馬俑を発見したことで始皇帝陵は世界的に知られるようになった。ただし始皇帝を埋葬した陵墓の発掘作業が行われておらず、比較的完全な状態で保存されていると推測される。現代になり、考古学者は墓の位置を特定して探針を用いた調査を行った。この際、自然界よりも濃度が約100倍高い水銀が発見され、伝説扱いされていた建築が事実だと確認された。


統一王朝
紀元前247年に13歳で政が即位したが、呂不韋が相国となって実質的な権力を握り、紀元前241年には蕞の戦いで、趙、楚、魏、韓、燕の五カ国連合軍を撃退した。 紀元前238年、政の実母の愛人である嫪毐が反乱を起こすがすぐに鎮圧させる。これに連座して商人から宰相になり権力を握っていた呂不韋が失脚、政が権力を握った。
次に韓の公子韓非が法を説き政を感服させる。だが韓非は李斯に自害させられ、李斯が丞相を任じられ国力増強に努め韓・魏・趙を滅ぼした。紀元前227年に政が燕からの刺客荊軻に殺されそうになるが危機を脱した。紀元前223年に王翦が秦最大の敵であった楚を滅亡させ、燕を滅ぼし、紀元前221年に斉を滅ぼし中国を統一し、政は自ら皇帝(初めての皇帝なので、始皇帝という)を名乗った。この皇帝の称号は、中国の伝説上の聖王である三皇五帝からとったものである。
始皇帝は度量衡・文字の統一、郡県制の実施など様々な改革を行った。また、匈奴などの北方騎馬民族への備えとして、それまでそれぞれの国が独自に作っていた長城を整備し万里の長城を建設、それに加えて阿房宮という増大な宮殿の建築も行った。万里の長城阿房宮の建設は主に農民を使役して行われた。焚書坑儒などの思想政策も行った。過酷な労働と極度の法治主義儒教弾圧に国内は不満が高まり、反乱の芽を育てた。匈奴に対しては、蒙恬を派遣して、北方に撃退した。さらに、南方にも遠征し、現在のベトナム北部まで領土を広げた。このとき、南方には、南海郡(現在の広東省広州市)・桂林郡(現在の広西チワン族自治区桂林市)・象郡(現在のベトナム北部、前漢以降は日南郡と呼んだ)の三つの郡が置かれた。これは、中国王朝による南方支配の始まりでもある。始皇帝は不老不死を求め、国外への漫遊を配下に命じ、徐福は船で日本に向かったとされている。
始皇帝は人体に有毒な水銀が不老不死の薬であると信じ、これが逆に始皇帝の寿命を縮める結果となる。始皇帝は巡幸中に死亡、身辺の世話をしていた宦官趙高と丞相李斯によって隠され、長子の扶蘇始皇帝の血族者ら権力者を次々に処刑し、暗愚な二世皇帝を傀儡として、権力をほしいままにして暴政を敷いた。始皇帝が死んだことでたがが緩み、翌年には陳勝呉広の乱が勃発、全国に飛び火して、騒乱状態となった。
二世皇帝と趙高は章邯を将軍として討伐軍を送る。章邯は軍事的能力を発揮し、陳勝軍を撃破し、さらにその後を受けた項梁軍も撃破した。しかし項梁の甥の項羽との決戦に破れ、章邯たちは捕虜となる。項羽は咸陽に向かう途中で造反の気配を見せた秦兵20万を穴埋めにして殺してしまった。
李斯にでっち上げの罪を着せて殺害し権力を握った趙高は章邯が大敗しさらには劉邦が咸陽近くにまで迫っていることを聞き狼狽し、二世皇帝を暴政の汚名を着せた上で暗殺し、子嬰を立てて民意の安定を図ろうとするが、子嬰らによって誅殺された。
その後、劉邦が咸陽へ入ると、子嬰は降伏し、秦は滅亡した。劉邦は子嬰を殺さないことにしていたが、後から咸陽にやってきた項羽は子嬰一族を殺し、咸陽の美女財宝を略奪して、火をかけ、咸陽は廃墟となった。