始皇本紀第六

史記 始皇本紀第六
 秦の始皇帝は、秦の荘襄王の子である。

 当時、秦の領土は、西はすでに巴・蜀・漢中を併せ、南は宛をこえて呈を保有し、南郡をおいていた。

 元年、蒙驚が叛軍を撃って、これを平定した。二年、鹿公が兵を率いて巻を攻め、首を斬ること三万であった。三年、蒙驚が韓を攻め十二カ城を取った。王騎が死んだ。十月、将軍蒙驚は魏の暢・有詭(いずれも魏邑だが位置不明)を攻めた。凶作で飢饉であった。四年、蒙驚が暢と有詭をおとしいれ、三月帰還した。秦から行っていた人質が趙から帰り、秦に来ていた趙の人質の太子が趙に帰った。十月庚寅の日、蝗虫が東方から来襲し、天を蔽うばかりであった。天下に疫病が流行した。百姓で、粟千石を献納した者に爵一級(敵の首級一つを挙げるに当たる爵で、公士)を賜うた。

皇帝
始皇帝(紀元前246年 - 紀元前210年)
始皇帝(紀元前259年 - 紀元前210年)は、中国戦国時代の秦王(在位紀元前246年 - 紀元前221年)。姓は嬴、諱は政。現代中国語では、始皇帝 (Shǐ Huángdì, シーフアンティ) または秦始皇 (Qín Shǐ Huáng, チンシーフアン・クィンシーフアン) と称される。紀元前221年に中国統一を成し遂げると最初の皇帝となり、紀元前210年に49歳で死去するまで君臨した。
中国統一を成し遂げた後に「始皇帝」と名乗った。中国の歴史上の重要な人物であり、約2000年に及ぶ中国皇帝の先駆者である。統一後は、重臣の李斯とともに主要経済活動や政治改革を実行した。始皇帝は巨大プロジェクトを実行し、万里の長城の建設や、等身大の兵馬俑で知られる秦始皇帝陵の建設、国家単位での交通規則の制定などを、多くの人民が払う犠牲の上に行った。また、焚書坑儒を実行した事でも知られる。

二世皇帝(紀元前209年 - 紀元前207年)
秦王嬰(紀元前207年)

山海経 海内東経

蓋国は巨燕の南、倭の北に在り。倭は燕に属す。




非子 前900-前858
秦侯 前857-前848
公伯 前847-前845
秦仲 前844-前822
荘公 前821-前778

襄公 前777-前766
文公 前765-前716
寧公 前715-前704
出子 前703-前698
武公 前697-前678
徳公 前677-前676
宣公 前675-前674
成公 前663-前660
穆公 前659-前621
康公 前620-前609
共公 前608-前604
桓公 前603-前577
景公 前576-前537
哀公 前536-前501
恵公 前500-前491
悼公 前490-前477
窅共公 前476-前443
躁公 前442-前429
懐公 前428-前425
霊公 前424-前415
簡公 前414-前400
恵公 前399-前387
出公 前386-前385
献公 前384-前362
孝公 前361-前338

恵文王 前338-前311
武王 前311-前307
昭襄王 前306-前251
孝文王 前250
荘襄王 前249-前247
政 前246-前221
皇帝
始皇帝 前221-前210
二世皇帝 前209-前207

子嬰 前207


プトレマイオス3世エウエルゲテス(希:Πτολεμαίος Γ' Ευεργέτης、英:Ptolemy III Euergetes、在位紀元前246年-紀元前222年)は、古代エジプトプトレマイオス朝のファラオ。父はプトレマイオス2世、母はアルシノエ1世。妻はベレニケ2世。子にはプトレマイオス4世、アルシノエ3世がいる。恩恵王(エウエルゲテス)と称され、プトレマイオス朝の全盛時代を築いた。

紀元前246年、プトレマイオス2世の死後、ファラオとなる。キュレネ王マガスの娘ベレニケ2世と結婚し、キュレネ地方との結びつきを強化した。姉妹でシリアのセレウコス朝に嫁いでいたベレニケ・フェルノフォラスが、夫アンティオコス2世の前妻ラオディケ1世により殺害されると、報復としてシリアへ侵攻し、第三次シリア戦争(紀元前246年-紀元前241年)を引き起こした。シリアの首都アンティオキアを占領し、メソポタミアのセレウキアにまで到達し略奪を行なうなど大勝利を収めた後、エジプト国内での凶作・内乱を受けて帰国。

ファイユーム地方への植民活動を奨励し、文化活動の保護・君主崇拝の強化、暦法の改革を行なうなど、内政面においても優れた統治能力を発揮した。

シリア遠征に際し、かみのけ座の逸話を残している。妻ベレニケ2世は、夫が無事に戻ったならば、美しく、かつ美しいゆえに有名であった自分の髪を女神アプロディテに捧げると誓った。夫が戻ると、王妃は髪を切り、女神の神殿に供えた。

翌朝までに、髪の毛は消えていた。王と王妃は大変に怒り、神官たちは死刑を覚悟した。このとき、宮廷天文学者コノン(Conon)は、神は王妃の行いが大変に気に入り、かつ、髪が美しいので大変に喜び、空に上げて星座にした、と王と王妃に告げ、しし座の尾の部分を指し示した。そして、その場所はこれ以後、Bereniceのかみのけ座(Coma Berenices)と呼ばれることになった。コノンのこのとっさの知恵により、神官たちの命は救われたという。

プトレマイオス3世は、死亡した王妃を記念する新しい祭典の執行を命じるカノープス勅令を出した。その碑文が現存している。この碑文はヒエログリフ(聖刻文字)、デモティック(民衆文字)、ギリシア文字の3種で刻まれている。