エンペドクレス(紀元前490年頃 – 紀元前430年頃)

エンペドクレス(Empedocles、紀元前490年頃 – 紀元前430年頃)は、古代ギリシアの自然哲学者、医者、詩人、政治家。アクラガス(現イタリアのアグリジェント)の出身。四元素説を唱えた。弁論術の祖とされる。名家の出身で、彼の祖父は紀元前496年に行われたオリンピア競技(競馬)で優勝した。彼自身も優勝したことがあるようだ。ピュタゴラス学派に学びパルメニデスの教えを受けたとされる。


ダティスとアルタプレネスの侵攻
紀元前490年、ダレイオス1世は、要求を呑まない諸都市を攻略すべく、マルドニオスに代わって新たにメディア人の将軍ダティスとサルディス総督アルタプレネス (息子)(イオニアの反乱時に総督を努めたアルタプレネスの子)を司令官とする600隻の三段櫂船団を派遣した。ペルシア艦隊はエーゲ海を横断し、キクラデス諸島の都市国家ナクソスを陥落させると、エウボイア島に上陸、南端のカリュストスを制圧し、イオニアの反乱を支援したエレトリアに侵攻した。
エレトリアはアテナイからの援軍を得たが、親ペルシア派と交戦派の不和による対応の混乱を目の当たりにしたアテナイの援軍は、エレトリアの守備を放棄して帰還した。ペルシア軍の攻撃を受けるとエレトリアも交戦の意志を固め、包囲に7日間抵抗したが、内部の親ペルシア派が城門を開いたため、ペルシア軍に攻略された。
エレトリアを制圧したペルシア軍は、アテナイを追放された元僭主ヒッピアスの助言により、 当時のアテナイの主要港であり、またヒッピアスの父ペイシストラトスの勢力地盤でもあったアッティカ東岸のマラトンに上陸した。アテナイはスパルタに援軍の要請をするとともに、奴隷を伴ってマラトンに展開し、プラタイアからの援軍を得てマラトン平野の南部に位置するヘラクレス神域に布陣した。将軍ミルティアデス率いるアテナイ・プラタイア連合軍は、この戦いで重装歩兵密集陣を駆使してペルシア軍を破り、敵の陸上移動を断念させた。
ペルシア艦隊は、スニオン岬を迂回してファレロン湾に艦隊を展開し、揚陸の動きを見せたが、アテナイ・プラタイア両軍がこの動きを察知してアテナイに移動したため、ペルシア軍は攻めきれず、本国へ撤退した。
マラトンの戦いの勝利によって、親ペルシア派のペイシストラトス家とアルクメオン家の人間は次々と陶片追放され、アテナイはペルシアに対して一貫した政治的態度をとるようになった。また、アテナイ民会は、マラトンの戦いで英雄視されていたにも関わらず、私欲のために国庫に打撃を与えたミルティアデスを告発して厳格な司法権を行使したほか、軍事長官の権威を下げ、将軍職の地位を上げるとともに再任できるようにするなど、強国としての国家体制を着実に整えていった。