第二回海上同盟

戦争の結果、デロス同盟は解放され、アテナイでは共和制が崩壊してスパルタ人指導の下に寡頭派政権(三十人政権)が発足し、恐怖政治によって粛正を行なった。だが、三十人政権は9ヶ月で崩壊し共和制派勢力が政権を奪取する。共和制政権のもとでは、ペロポネソス戦争敗戦の原因となったアルキビアデスや、三十人政権の指導者のクリティアスらが弟子であったことから、ソクラテスアリストパネスらによって糾弾され、公開裁判にかけられて刑死した。紀元前401年の同時期、アケメネス朝ペルシアではアルタクセルクセス2世と小キュロスの間で後継者争いのクナクサの戦いが起こった。この戦いに参加したクセノポンは『アナバシス』を記した。
アテナイデロス同盟の支配者たる地位は失ったものの、有力ポリスとして存在し続けたのである。ペルシア帝国のギリシャ地方支配に対抗したスパルタに対して、ペルシャ帝国は敵対するアテナイやテーバイ、後にはコリントスなどのスパルタと敵対するポリスに資金支援が行われ、諸ポリスが合従連衡を繰り返してスパルタに対抗した(例えばコリントス戦争、大王の和約)。紀元前379年にようやくスパルタがギリシャエーゲ海における覇権を握ったが、海上交易のもたらす富が市民の間に貧富の差を生み、主に自作農から構成された兵役を担う自由市民が700名程度にまで減少したため、質実剛健を旨とするリュクルゴス制度は打撃を受けた。
紀元前378年、アテナイデロス同盟に代わる第二回海上同盟を再び結成した。ギリシア世界がボイオティア戦争で慢性的な戦争状態に陥り、徐々に衰退する一方で、アテナイは紀元前375年のナクソス沖の海戦でペルシア軍を打ち破り、海上の覇権を取り戻した。 紀元前371年、スパルタ軍はレウクトラの戦いでエパメイノンダスに率いられたテバイ軍に敗北し、ギリシアの覇権を失った。一時的に覇権を握ったテーバイも、紀元前362年にマンティネイアの戦いでエパメイノンダスが死去すると覇権を失った。
紀元前357年にテーバイとアテナイの間で同盟市戦争が勃発し、紀元前356年にはテーバイを中心とするアンフィクテュオニア評議会とフォキスを中心とするアテナイ・スパルタ連合軍の間で第三次神聖戦争が起こった。紀元前355年に同盟市戦争は同盟市の勝利におわり、第二回海上同盟は崩壊。紀元前346年に第三次神聖戦争も隣保同盟が勝利し、マケドニア王国のフィリッポス2世の影響力が強化された。紀元前347年にプラトンが死去し、アリストテレスが故郷のマケドニアに帰国してアレクサンドロス3世の家庭教師になったこともこの後の歴史に大きな影響を与えた。紀元前338年のカイロネイアの戦いでマケドニア王国にアテナイ・テバイ連合軍は敗北し、マケドニアの覇権が成立した。こうしてギリシア世界はマケドニア支配下に置かれることになったのである(スパルタだけはマケドニア主導のヘラス同盟(コリント同盟)に加わらず、後にアギス3世が反マケドニアの兵を起こすも、紀元前331年のメガロポリスの戦いで敗れた)。紀元前336年にフィリッポス2世が暗殺されると一時的にヘラス同盟は混乱に陥ったが、アレクサンドロスが権力を掌握。紀元前334年にアレクサンドロスは、ペルシア戦争以来の宿敵ペルシアを倒すためにマケドニア軍を率いて東征に乗り出した(アレキサンダーの東征)。