劉邦 前256年-前195年6月1日

生年 前256年(前247年とも)
没年 前195年6月1日

出生
沛県郡豊県中陽里(現在の江蘇省徐州市沛県)で、父・劉太公と母・劉媼の三男として誕生した。長兄に劉伯、次兄に劉喜が、異母弟に劉交がいる。生年については2説ある。
劉媼が劉邦を出産する前、沢の側でうたた寝をしていると、夢の中で神に逢い、劉太公は劉媼の上に龍が乗っている姿を見た。その夢の後に劉邦が生まれたという。また、諱の「邦」は『史記』では記されておらず、現在に残る文献で一番古いものでは後漢の荀悦『漢紀』に記され、『史記』『漢書』の注釈でそれを引用している。出土史料から諱が「邦」であったことはおそらく正しいと思われる。また、字の「季」は「末っ子」のことである。
劉邦の容姿は鼻が高く、立派な髭をしており、いわゆる龍顔、顔が長くて鼻が突き出ている顔をしていたという。また太股に72の黒子があった、72とは1年360日を五行思想の5で割った数で、当時ではかなりの吉数である。


春秋戦国時代
春秋時代の周は洛邑(王城・成周)周辺を支配する小国となり、往時と比するべくもない程まで没落した。それでも権威だけは保持しており、諸侯たちはその権威を利用して諸侯の間の主導権を握ろうとした(春秋五覇)。そのわずかな権威も戦国時代に入ると完全に無くなり、各諸侯がそれぞれ「王」を称するようになった。
その小さな王朝の中でも権力争いは続いており、東西に分裂したり、何度となく王が殺されることが起きた。
最終的には紀元前256年に赧王(延)の時、秦に滅ぼされた。ただ、国として滅びたのみで王族はそのまま存続された。