壺衍鞮単于(在位:前85年 - 前68年)

構成諸族の離反
壺衍鞮単于(在位:前85年 - 前68年)の代になり、東胡の生き残りで匈奴に臣従していた烏桓族が、歴代単于の墓をあばいて冒頓単于に敗れた時の報復をした。壺衍鞮単于は激怒し、2万騎を発して烏桓を撃った。
漢の大将軍の霍光はこの情報を得ると、中郎将の范明友を度遼将軍に任命し、3万の騎兵を率いさせて遼東郡から出陣させた。范明友は匈奴の後を追って攻撃をかけたが、范明友の軍が到着したときには、匈奴は引き揚げていた。そこで、范明友は烏桓族が力を失っているのに乗じて攻撃をかけ、6千余りの首級を上げ、3人の王の首をとって帰還した。
壺衍鞮単于はこれを恐れて漢への出兵を控え、西の烏孫へ攻撃を掛け車師(車延,悪師)の地を取った。しかし、烏孫は漢との同盟国であったため、救援要請を受けた漢軍は五将軍を派遣して匈奴に攻撃を仕掛けた。匈奴の被害は甚大で、烏孫を深く怨むこととなる。その冬、壺衍鞮単于烏孫を報復攻撃した。しかし、その帰りに大雪にあって多くの人民と畜産が凍死し、これに乗じた傘下部族の北の丁令、東の烏桓、西の烏孫から攻撃され、多くの兵と家畜を失った。これにより匈奴に従っていた周辺諸国も離反し、匈奴は大きく弱体化した。