孔子(紀元前552年10月9日‐紀元前479年3月9日)

孔子(紀元前552年10月9日‐紀元前479年3月9日)は、春秋時代の中国の思想家、哲学者。儒家の始祖。 氏名は孔、諱は丘、字は仲尼(ちゅうじ)。孔子とは尊称である(子は先生という意味)。ヨーロッパではラテン語化された"Confucius"(孔夫子の音訳、夫子は先生への尊称)の名で知られている。
実力主義が横行し身分制秩序が解体されつつあった周末、魯国に生まれ、周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家をなした。孔子と弟子たちの語録は『論語』にまとめられた。
3500人の弟子がおり、特に「身の六芸に通じる者」として七十子がいた。そのうち特に優れた高弟は孔門十哲と呼ばれ、その才能ごとに四科に分けられている。すなわち、徳行に顔回閔子騫冉伯牛・仲弓、言語に宰我・子貢、政事に冉有子路、文学(学問のこと)に子游・子夏である。その他、孝の実践で知られ、『孝経』の作者とされる曾参(曾子)がおり、その弟子には孔子の孫で『中庸』の作者とされる子思がいる。
孔子の死後、儒家は八派に分かれた。その中で孟軻(孟子)は性善説を唱え、孔子が最高の徳目とした仁に加え、実践が可能とされる徳目義の思想を主張し、荀況(荀子)は性悪説を唱えて礼治主義を主張した。『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』といった周の書物を六経として儒家の経典とし、その儒家的な解釈学の立場から『礼記』や『易伝』『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』といった注釈書や論文集である伝が整理された(完成は漢代)。
孔子の死後、孟子荀子といった後継者を出したが、戦国から漢初期にかけてはあまり勢力が振るわなかった。しかし前漢後漢を通じた中で徐々に勢力を伸ばしていき、国教化された。以後、時代により高下はあるものの儒教は中国思想の根幹たる存在となった。
20世紀、文化大革命においては毛沢東とその部下達は批林批孔運動という孔子林彪を結びつけて批判する運動を展開。孔子は封建主義を広めた中国史の悪人とされ、林彪はその教えを現代に復古させようと言う現代の悪人であるとされた。近年、中国共産党は新儒教主義また儒教社会主義を提唱しはじめている(儒教参照)。

孔子の生まれた魯(紀元前1055年 - 紀元前249年)は、周公旦を開祖とする王朝国家で、周公旦は周王朝を開いた武王の弟である。周公旦は、武王の子である成王を補佐し、建国直後の周を安定させた。周公旦は、曲阜に封じられて、魯公となるが魯に向かうことはなく、嫡子の伯禽に赴かせてその支配を委ね、自らは中央で政治に当たっていた。
周公旦は、周王朝の礼制を定めたとされ、礼学の基礎を築き、周代の儀式・儀礼について『周礼』『儀礼』を著したとされる。旦の時代から約500年後の春秋時代に生まれた孔子は、魯の建国者周公旦を理想の聖人と崇めた。孔子は、常に周公旦のことを夢に見続けるほどに敬慕し、ある時に夢に旦のことを見なかったので「年を取った」と嘆いたと言うほどであった。
魯では周公旦の伝統を受け継ぎ、古い礼制が残っていた。この古い礼制をまとめ上げ、儒教として後代に伝えていったのが、孔子一門である。孔子儒教を創出した背景には、魯に残る伝統文化があった。

春秋時代に入ってからの魯国は、晋・斉・楚といった周辺の大国に翻弄される小国となっていた。国内では、魯公室の分家である三桓氏が政治の実権を握り、寡頭政治を行っていた。三桓氏とは、孟孫氏(仲孫氏)・叔孫氏・季孫氏のことをいう。魯の第15代君主桓公の子に生まれた3兄弟の慶父・叔牙・季友は第16代荘公の重臣となり、慶父から孟孫氏(仲孫氏)、叔牙から叔孫氏、季友から季孫氏に分かれ代々魯の実権を握ってきた。特に権力を極めたのが季孫氏で、代々司徒の役職に就き、叔孫氏が司馬、孟孫氏(仲孫氏)が司空を務めた。
孔子の生まれた当時は襄公(紀元前572年-紀元前542年)の時代であった。紀元前562年には季孫氏の季武氏の発議によってそれまで上下二軍組織だった魯国軍を上中下の三軍組織に再編、のちに三桓氏は軍事を独占するようになる 。

紀元前552年(一説には551年)に、魯国昌平郷辺境の陬邑、現在の山東省曲阜(きょくふ)市で陬邑大夫の次男として生まれた。父は既に70歳を超えていた叔梁紇、母は身分の低い16歳の巫女であった顔徴在とされるが、『論語』の中には詳細な記述がない。父は三桓氏のうち比較的弱い孟孫氏に仕える軍人戦士で、たびたびの戦闘で武勲をたてていた。沈着な判断をし、また腕力に優れたと伝わる。また『史記』には、叔梁紇が顔氏の娘との不正規な関係から孔子を生んだとも、尼丘という山に祷って孔子を授かったとも記されている。このように出生に関しては諸説あるものの、いずれにしても決して貴い身分では無かったようである。「顔徴在は尼山にある巫祠の巫女で、顔氏の巫児である」と史記は記す。貝塚茂樹は、孔子は私生児ではなかったが嫡子ではなく庶子であったとしたうえで、後代の儒学者が偉人が処女懐胎で生まれる神話に基づいて脚色しようとするのに対して、合理的な司馬遷の記述の方が不敬とみえても信頼できるとしている。孔子はのちに「吾少(わか)くして賎しかりき、故に鄙事に多能なり」と語っている。
幼くして両親を失い、孤児として育ちながらも苦学して礼学を修めた。しかし、どのようにして礼学を学んだのかは分かっていない。そのためか、礼学の大家を名乗って国祖・周公旦を祭る大廟に入ったときには、逆にあれは何か、これは何かと聞きまわるなど、知識にあやふやな面も見せているが、細かく確認することこそこれが礼であるとの説もある。また、老子に師事して教えを受けたという説もある。
弟子の子貢はのちに「夫子はいずくにか学ばざらん。しかも何の常の師かあらん。(先生はどこでも誰にでも学ばれた。誰か特定の師について学問されたのではない)」(子張篇)と答えたといわれ、孔子は地方の小学に学び、地方の郷党に学んだ。特定の正規の有名な学校で学んだわけではないという意味で独学であった。

紀元前542年6月、襄公が薨去すると、太子の魯公野が即位するが同年の9月、野は突然死したため、襄公と斉帰の間の子である裯が昭公(?-紀元前510年)として君主に即位した。
紀元前537年に季孫氏は一軍を廃止するとともに私物化し、さらに三桓氏が魯国軍を三分し私軍化し、三家による独裁体制が実現した。この前年の紀元前538年に15歳の孔丘が学に志している。
紀元前534年、19歳のときに宋の幵官(けんかん) 氏と結婚する。翌年、子の鯉(り) (字は伯魚)が誕生。
紀元前525年、28歳の孔子はこの頃までに魯に仕官し委吏、乗田となった。
紀元前517年、孔子が36歳のときに第23代君主昭公による先代君主襄公を祭る場で、宮廷の礼制が衰え、舞楽も不備で舞人はわずか二名であった。他方、季氏の祭りの際には64人の舞人が舞った。これを見て孔子は憤慨する。同年9月、昭公が季孫氏の季孫意如を攻めるが、クーデターは失敗し、斉へ国外追放され、昭公はそこで一生を終える。孔子も昭公のあとを追って斉に亡命する。魯に帰国したのは翌年とも7年後ともいわれる。魯は紀元前509年に定公が第24代君主に就任するまで空位時代であった。孔子は斉の首都臨淄で肉の味がわからないほどに音楽に感銘を受ける。
紀元前505年、季孫氏当主の季孫斯(季桓子)に仕えていた陽虎(陽貨)が反旗を翻して魯の実権を握る。同年、陽虎は、孔子を召抱えようとし、また孔子も陽虎に仕えようとしたが、それは実現しなかった。なお陽虎と孔子は二人とも巨漢で容貌が似ており、孔子は陽虎と見間違えられ、危難に遭ったことがある。陽虎は紀元前502年に叔孫氏・孟孫氏(仲孫氏)の家臣を従えて、三桓氏の当主たちを追放する反乱を起こして篭城戦を繰り広げたが、三桓氏連合軍に敗れ、魯の隣国である斉に追放され、その後、宋・晋を転々とし、紀元前501年に晋の趙鞅に召抱えられた。

紀元前501年、孔子52歳のとき定公によって中都の宰に取り立てられた。その翌年の紀元前500年春、定公は斉の景公と和議をし、「夾谷の会」とよばれる会見を行う。このとき斉側から申し出た舞楽隊は矛や太刀を小道具で持っていたので、孔子舞楽隊の手足を切らせた。「春秋伝」によれば、これは有名な名相晏子による計略で、それを孔子が見破ったといわれる。景公はおののき、義において魯に及ばないことを知った。この功績で孔子最高裁判官である大司寇に就任し、かつ外交官にもなった。孔子は晋との長年の「北方同盟」から脱退した。三桓氏がこれまで晋の権力を背景に魯の君主に圧迫することを繰り返してきたからで、それを禁絶するためだった。
紀元前498年、孔子は弟子のなかで武力にすぐれた子路を季氏に推薦したうえで、三桓氏の根城を壊滅する計画を実行に移し、定公にすすめて軍を進めたが、落とせなかった。

翌年の紀元前497年に弟子とともに諸国巡遊の旅に出た。国政に失望したとも、三桓氏の反撃ともいわれる。衛に赴き、ついで陳に赴く。 紀元前49年、弟子を顔回以外全員取った少正卯を暗殺する。 紀元前494年には魯で哀公が第27代君主に就任する。前487年に魯は隣国の呉に攻められるも奮戦し、和解した。その後斉に攻められ敗北した。前485年には呉と同じく斉へ攻め込み大勝した。翌年の前484年にはまた斉に攻められた。

紀元前484年、孔子は69歳の時に13年の亡命生活を経て魯に帰国し、死去するまで詩書など古典研究の整理を行う。この年、子の鯉が50歳で死んでいる。
翌前483年に斉の簡公を討伐するように孔子が哀公に進軍を勧めるが実現しなかった。その3年後の前481年、斉の簡公が宰相の田恒(陳恒)に弑殺されたのを受けて、孔子が再び斉への進軍を3度も勧めるが、哀公は聞き入れなかった。
孔子の作と伝えられる歴史書『春秋』は哀公14年(紀元前481年)に魯の西の大野沢(だいやたく)で狩りが行われた際、叔孫氏に仕える御者が、麒麟を捉えたという記事(獲麟)で終了する。このことから後の儒学者は、孔子は、それが太平の世に現れるという聖獣「麒麟」であるということに気付いて衝撃を受けた。太平とは縁遠い時代に本来出てきてはならない麒麟が現れた上、捕まえた人々がその神聖なはずの姿を不気味だとして恐れをなすという異常事態に、孔子は自分が今までやってきたことは何だったのかというやり切れなさから、自分が整理を続けてきた魯の歴史記録の最後にこの記事を書いて打ち切ったとも解釈している。ここから「獲麟」は物事の終わりや絶筆のことを指すようになった。
紀元前479年に孔子は74歳で没し曲阜の城北の泗水のほとりに葬られた。前漢の史家司馬遷は、その功績を王に値すると評価し、「孔子世家」とその弟子たちの伝記「仲尼弟子列伝」を著した。儒教では「素王」(そおう、無位の王の意)と呼ぶことも多い。

孔子の死後、前471年に哀公は晋と同じく斉へ指揮官として進軍する。さらに前468年に三桓氏に反乱を起こすも三桓氏に屈し、衛・鄒と点々と身を置き、越に国外追放され前467年にその地で没した。
孔伯魚の息子で孔子の孫である子思(紀元前483年?-紀元前402年?)は幼くして父と祖父を失ったため孔子との面識はわずかだが、曾子の教えを受け儒家となり、魯の第30代君主穆公(? - 紀元前383年)に仕えた。穆公は在位期間中に改革を実行し、哀公・悼公・元公の3代にわたる三桓氏の専制の問題から脱却し、魯公室の権威を確立して、隣国の斉とのあいだで数度の戦争を展開した。孟子は子思の学派から儒学を学んでいる。
のち、国としての魯は衰退し、紀元前249年に楚に併合され、滅亡した。

『仁(人間愛)と礼(規範)に基づく理想社会の実現』(論語孔子はそれまでのシャーマニズムのような原始儒教(ただし「儒教」という呼称の成立は後世)を体系化し、一つの道徳・思想に昇華させた(白川静説)。その根本義は「仁」であり、仁が様々な場面において貫徹されることにより、道徳が保たれると説いた。しかし、その根底には中国伝統の祖先崇拝があるため、儒教は仁という人道の側面と礼という家父長制を軸とする身分制度の双方を持つにいたった。
孔子は自らの思想を国政の場で実践することを望んだが、ほとんどその機会に恵まれなかった。孔子の唱える、体制への批判を主とする意見は、支配者が交代する度に聞き入れられなくなり、晩年はその都度失望して支配者の元を去ることを繰り返した。それどころか、孔子の思想通り、最愛の弟子の顔回は赤貧を貫いて死に、理解者である弟子の子路は謀反の際に主君を守って惨殺され、すっかり失望した孔子は不遇の末路を迎えた。