神日本磐余彦天皇 神武天皇

日本書紀 巻第三

神日本磐余彦天皇 神武天皇

 戊午の年の春二月の丁酉朔の丁未(十一日)に、天皇軍はついに、東をめざして舳艫相次いで出発した。ちょうど難波の碕一まで来ると、甚だしく速い潮流に出合った。そこで名付けて、ここを浪速国二という。また浪花ともいう。今、難波というのは、それが訛った三ものである〔「訛」はここではヨコナマルという〕。

一 大阪市東区上町台地の北端から北区天満付近にわたる地域。もと大阪市の東方河内平野には広大な潟湖があり、上町台地の北端は千里山丘陵と相対して潟湖の口を扼していたという。
二 →補注3-八。
三 ヨコナマルはヨコナバルとも訓み、ヨコは、タテ・ヨコのヨコ。傍にはずれていること。ナマル・ナバルは、避けて隠れる意。


 三月十日、川をさかのぼって、河内国草香村(日下村)の青雲の白肩津に着いた。
 夏四月九日、皇軍は兵を整え、歩いて竜田に向った。

「いま自分は日神の子孫であるのに、日に向って敵を討つのは、天道に逆らっている。一度退去して弱そうに見せ、天神神祇をお祀りし、背中に太陽を負い、日神の威光をかりて、敵に襲いかかるのがよいだろう。このようにすれば刃に血ぬらずして、敵はきっと敗れるだろう」といわれた。

 初め孔舎衛の戦いに、ある人が大きな樹に隠れて、難を免れることができた。

 五月八日、軍は茅亭(和泉の海)の山城水門についた。

 進軍して紀の国の竈山に行き、五瀬命は軍中に歿くなった。よって竈山に葬った。
 六月二十三日、軍は名草邑に着いた。

 天皇はひとり、皇子手研耳命と、軍を率いて進み、熊野の荒坂の津に着かれた。

 皇軍は内つ国に赴こうとした。

 秋八月二日、兄猾と弟猾を呼ばれた。

 天皇道臣命を遣わして、その悪計を調べさせられた。

 これを来目歌という。

 九月五日、天皇は宇陀の高倉山の頂きに登って、国の中を眺められた。

 このとき敵兵は道を覆い、通ることも難しかった。

 道臣命にいわれるのに、「いま高皇産霊尊を、私自身が顕斎(見えない神の身を顕に見えるように斎き祭ること)しよう。お前を斎主とし、女性らしく厳媛と名づけよう。そこに置いた土瓦とし、また火の名を厳香来雷とし、水の名を厳罔象女、食物の名を厳稲魂女、薪の名を厳山雷、草の名を厳野椎とする」と。
 冬十月一日、天皇はその厳瓦の供物を召上がられ、兵を整えて出かけられた。

 歌の心は、大いなる石をもって国見丘に喩えている。

 道臣命は密命により、室を忍坂に掘り、味方の強者を選んで、敵と同居させた。

 みんな座について酒を飲んだ。

 味方の兵はこの歌を聞いて、一斉に頭椎の剣を抜いて、敵を皆殺しにした。

 今、来目部が歌って後に大いに笑うのは、これがそのいわれである。また歌っていう。

 これは皆密旨をうけて歌ったので、自分勝手にしたことではない。

 十一月七日、皇軍は大挙して磯城彦を攻めようとした。

 はたして男軍が墨坂を越え、後方から夾み討ちにして敵を破り、梟雄兄磯城を斬った。
 十二月四日、皇軍はついに長髄彦を討つことになった。

 また歌っていう。

 また兵を放って急迫した。

 さて長髄彦は使いを送って、天皇に言上げし、「昔、天神の御子が、天磐船に乗って天降られました。櫛玉饒速日命といいます。この人が我が妹の三炊屋媛を娶とって子ができました。名を可美真手命といいます。それで、手前は、饒速日命を君として仕えています。一体天神の子は二人おられるのですか。どうしてまた天神の子と名乗って、人の土地を奪おうとするのですか。手前が思うのにそれは偽物でしょう」と。

天皇饒速日命が天から降ったということは分り、いま忠誠のこころを尽くしたので、これをほめて寵愛された。これが物部氏の先祖である。


饒速日命―宇麻志麻治命─彦湯支命─出石心大臣命─大矢口宿禰─大綜杵─伊香色雄命―物部十千根―胆咋―五十琴―伊莒弗―目―荒山―尾輿―守屋…荻生少目―総右衛門―玄甫―方庵―徂徠