ペルシア ダレイオス 前522―前486

スメルディス(? - 紀元前525年あるいは522年)は、アケメネス朝ペルシアの太祖キュロス2世の息子で、カンビュセス2世の弟。その事績には謎が多く、王位についていた可能性がある。
ヘロドトスの『歴史』が伝えるところによると、紀元前525年のエジプト遠征を前にしたカンビュセス2世は、夢のお告げで弟のスメルディスに王位を奪われるのではないかと疑念を抱き、密かに殺させたという。ところが秘密裏であったことが仇となり、カンビュセスがエジプトにいる間に、ペルシア本国ではマギで大神官のガウマタがスメルディスに成りすまし(ヘロドトスはスメルディスとガウマタが似ていたと述べている)、ペルシアの帝位を簒奪したという。のちスメルディスの娘パルミュスは、ガウマタを倒したダレイオス1世の妻となった。
以上がヘロドトスの記述であるが、近年の研究ではガウマタはスメルディスの偽者ではなくスメルディス本人であった、つまり簒奪者は正当な王位継承権を持っていたガウマタではなく、それを倒したダレイオス本人であったとする説が有力になっている。この場合、ヘロドトスは簒奪者ダレイオスが捏造したプロパガンダ偽史をそのまま後世に伝えたことになる。


ダレイオス1世(紀元前558年頃 - 紀元前486年) はアケメネス朝ペルシア第3代の王(在位:紀元前522年 - 紀元前486年)。通称、ダレイオス大王。
紀元前550年頃、バクトリアでサトラップだったヒュスタスペスの長子として生まれた。
ダレイオス1世は内乱の後、推戴されて帝位についたとされるが、この事件は、ダレイオスによるキュロスの王朝の簒奪説が近年提起されている。
紀元前521年、パンジャーブ・シンドを征服。紀元前520年、ペルセポリスの建設に着手。
紀元前518年、ガンダーラを征服。
スキタイ人征伐のため南ロシア平原に侵攻したが、スキタイの焦土作戦に苦しめられて撤退した。
イオニア植民市の反乱を機として、ギリシアとの間で、約50年に及ぶペルシア戦争を開始させた。しかし、戦争の途中でダレイオスは死去し、戦いは息子のクセルクセス1世に引き継がれた。
ダレイオスは、全土を約20の行政区(サトラピー)に分割し、それぞれに総督(サトラップ)を配置した。その上で各地を結ぶ交通網を整備し、総督の監視や情報伝達のために「王の目」「王の耳」と称される監察官を派遣した。このように中央集権体制を整備し、エーゲ海からインダス川におよぶ最大版図を統治したことから、アケメネス朝全盛期の王と評価される。彼の時代に新都ペルセポリスが造営されたが、政治的中心はスーサであり続けた。交通網の整備は、当時としては驚異的な速度で通信や移動を行うことを可能とし、とりわけスーサとサルデスを結ぶ「王の道」は有名である。中央集権的な統治体制を整備する一方で、帝国内の諸民族には寛容な政策をとり、交易で活躍するアラム人やフェニキア人の活動を保護した。上質な金貨・銀貨を鋳造して帝国各地への流通を図ったが、その成果は限定的であったとされる。
彼の事跡を記したものにはベヒストゥーン碑文がある。この碑文は古代ペルシア語・エラム語・アッカド語(後期バビロニア語)によって書かれているが、ベヒストゥーン碑文に記された古代ペルシア楔形文字はペルシアで制定された表音文字であった。これはイギリス人のヘンリー・ローリンソンが解読に成功し、この解読を端緒として、楔形文字アッカド語楔形文字シュメール文字など)の解読への道が開けた。


ヘロドトス 歴史 巻三 タレイアの巻
 三九 カンビュセスがエジプト遠征を試みている頃、スパルタはサモス攻略の兵を起し、アイアケスの子で、革命を起してサモスの政権を握ったポリュクラテスを攻撃した。