献公が櫟陽に遷都

戦国時代
戦国時代には七雄の一つに数えられる。隣国の晋は内部での権力争いの末に韓・魏・趙の三国に分裂した(晋陽の戦い)。この内の魏が戦国初期には名君・文侯により強勢となり、秦は魏により圧迫を受け、領土を奪われる(陽狐の戦い)。紀元前383年、献公は櫟陽(現在の西安市閻良区)に遷都した。
この状況に憤慨した25代孝公は広く人材を求め、頽勢を挽回することのできる策を求めた。これに応じたのが商鞅である。商鞅は行政制度の改革・什伍制の採用などを行い、秦を強力な中央集権体制へと生まれ変わらせた(詳細は商鞅の項を参照)。この商鞅の変法運動に始まる秦の徹底的な法治主義により国内の生産力、軍事力を高め徐々に他の六国を圧倒していった。紀元前350年に古都・芤陽(現在の陝西省咸陽市)付近に城門・宮殿・庭園を造営して遷都し、都の名を咸陽と改めた。
その後、孝公の子の恵文王が紀元前324年に王を名乗る。強勢となった秦を恐れた韓・趙・魏・燕・斉の五ヶ国連合軍が攻めて来たが、樗里疾がこれを破った(函谷関の戦い)。紀元前316年に恵文王は蜀(四川省)を占領し、この地の開発を行ったことでさらに生産力を上げ、長江の上流域を押さえたことで楚に対して長江を使った進撃が行えるようになり、圧倒的に有利な立場に立った。さらに謀略に長けた張儀を登用して、楚を引きずり回して戦争で撃破し、楚の懐王を捕らえることに成功する。この強勢に恐れをなした魏と韓の王達をそれぞれ御者と陪乗にするほどにまで屈服させた。だが、恵文王の子の武王と張儀との確執があったために張儀が魏に亡命、さらに韓との激戦での辛勝により多くの兵を失った上に自身は突如事故死し、後継者争いが起きてしまい戦力が後退してしまう。
紀元前298年、斉の宰相・孟嘗君が韓・魏との連合軍を組織し、匡章を統帥として秦に侵攻した(三國聯軍攻秦之戰)。秦が函谷関に追いつめられると趙・宋も加わり五国連合軍となったため、秦は使者を送って講和を求めた。この後、東では斉が伸張し、殷の末裔である宋を併合するなど、周辺諸国を圧迫していった。紀元前288年には田斉の湣王が東帝、秦が西帝と名乗るとした。この案は斉がすぐに帝号を取りやめたので、秦も取りやめざるを得なかったが、この時期は西の秦・東の斉の二強国時代を作っていた。しかし斉は強勢を警戒された上に周辺諸国から恨みを買い、孟嘗君が魏へ逃亡すると、燕の楽毅が指揮する五国連合軍により、首都臨淄が陥落(済西の戦い)。斉は亡国寸前まで追い詰められ、東の斉、西の秦の二強国時代から秦一強時代へと移行した。
恵文王の子で武王の異母弟の昭襄王の時代に宰相・魏冄と白起将軍の活躍により、幾度となく勝利を収める。その時、魏より逃亡した范雎を登用し、統一へ向かっての提言を次々と行なった。范雎は魏冄や親族の権力があまりにも大きくなっていることを憂慮し、昭襄王に対し魏冄らを退けることを進言、実行した。次に范雎が進言したのが有名な遠交近攻策である。それまで近くの韓・魏を引き連れて、遠くの斉との戦いを行っていたのだが、これでは勝利しても得られるのは遠くの土地になり、守るのが難しくなってしまう。これに対して遠くの斉や燕と同盟して近くの韓・魏・趙を攻めれば、近くの土地が手に入り、それはすぐに秦の領土として組み入れるのが容易になる。この進言に感動した昭襄王は范雎を宰相とした。
紀元前260年に白起を趙に侵攻させ、白起は長平の戦いで趙軍を撃破し、趙の捕虜40万を坑(穴埋にして殺すこと)した。白起は大戦果を上げたが、そのため范雎に妬まれ、趙の都を落とす直前で引き返させられた。翌紀元前259年、将軍を王齕に替えて趙を攻めたが、趙の平原君のもとに援軍として現れた魏の信陵君・楚の春申君の活躍によって退けられた(邯鄲の戦い)。この事態を打開すべく白起を任じようとしたが、先の件から不信を持ち王命を拒否した結果、死を賜った。
これと時を同じくして商人の呂不韋が、昭襄王の孫のひとりである子楚が趙でひもじく過ごしているのを見つけ、子楚に投資をし荘襄王として即位させる。荘襄王呂不韋の愛妾のひとりをもらい受け、子供を生んだ。それが政である。紀元前255年に完全に周を滅ぼしてその領地を接収した。周滅亡後の紀元前247年、魏の信陵君が五カ国連合軍を率いて秦に攻めてきたため、王齕と蒙驁が迎え打ったが敗れて函谷関まで撤退した(河外の戦い)。秦が信陵君に流言を流すと、魏の安僖王が信陵君を政治から離したため、秦は危機を脱することができた。