天下巡遊

中国を統一した翌年の紀元前220年に始皇帝は天下巡遊を始めた。最初に訪れた隴西(甘粛省東南・旧隴西郡)と北地(甘粛省慶陽市寧県・旧北地郡)はいずれも秦にとって重要な土地であり、これは祖霊に統一事業の報告という側面があったと考えられる。
しかし始皇28年(前219年)以降4度行われた巡遊は、皇帝の権威を誇示し、各地域の視察および祭祀の実施などを目的とした距離も期間も長いものとなった。これは『書経』「虞書・舜典」にある舜が各地を巡遊した故事に倣ったものとも考えられる。始皇帝が通行するために、幅が50歩(67.5m)あり、中央には松の木で仕切られた皇帝専用の通路を持つ「馳道」が整備された。
始皇帝の天下巡遊路
順路は以下の通りである。
始皇28年(前219年、第1回):咸陽‐嶧山(山東省聊城市)‐秦山(山東省泰安市)‐黄(山東省竜口市)‐腄(山東省煙台市)‐成山(山東省文登市)‐芝罘(中国語版)(山東省煙台市)‐瑯邪(琅邪、山東省諸城市)‐彭城(江蘇省徐州市)‐衡山(湖南省湘潭市)‐南郡(湖北省南部)‐湘山祠(湖南省湘陰県)‐武關(陝西省丹鳳県)‐咸陽
始皇29年(前218年、第2回):咸陽‐陽武(河南省原陽県)‐之罘‐瑯邪‐上黨(山西省長治市)‐咸陽
始皇32年(前215年、第3回):咸陽‐碣石(河北省昌黎県)‐上郡(陝西省北部)‐咸陽
始皇37年(前210年、第4回):咸陽‐雲夢(湖北省雲夢県)‐海渚(安徽省桐城市)‐丹陽(江蘇省南京市)‐錢唐(浙江省杭州市)‐會稽(会稽‐浙江省紹興市)‐吳(江蘇省蘇州市)‐瑯邪‐成山‐之罘‐平原津(山東省平原県)‐沙丘(河北省平郷県)
これら巡遊の証明はもっぱら『史記』の記述のみに頼っていた。しかし、1975-76年に湖北省雲夢県の戦国‐秦代の古墳から発掘された睡虎地秦簡の『編年紀』と名づけられた竹簡の「今二十八年」条の部分から「今過安陸」という文が見つかった。「今」とは今皇帝すなわち始皇帝を指し、「二十八年」は始皇28年である紀元前219年の出来事が書かれた部分となる。「今過安陸」は始皇帝が安陸(湖北省南部の地名)を通過したことを記録している。短い文章ではあるが、これは同時期に記録された巡遊を証明する貴重な資料である。


アルシノエ3世(希:Αρσινόη Γ'、英:Arsinoe III、紀元前246年または紀元前245年 - 紀元前204年)は、紀元前220年から紀元前204年までのプトレマイオス朝の女王である。プトレマイオス3世とベレニケ2世の娘。

紀元前220年10月末から11月初めまでの間に、彼女は弟のプトレマイオス4世と結婚した。彼女は政治にも積極的に参加し、歩兵隊、騎兵隊を率いて紀元前217年にセレウコス朝のアンティオコス3世との間で行われたラフィアの戦いにも参加した。腐敗しつつあった宮廷改革に取り組む姿勢を見せたが、夫が消極的であったため成功しなかった。

彼女はプトレマイオス5世を生み、紀元前204年の夏に彼女の影響力を恐れた廷臣たちのクーデターにより暗殺された。