史記 始皇本紀第六

史記 始皇本紀第六

 二十八年、始皇は東のかた郡県をめぐり、雛(山東の国名)の鐸山に上り、石を立て、魯の諸儒生と、石に刻んで秦の徳を頌し、封禅や、諸方の山川を望祭することを議した。そこで泰山に上り、石を立て土を高く盛ってお祭をし、山を下ったところ、にわかに風雨があり、松樹の下に休んだ。よって、その樹を封じて五大夫とした。ついで梁父山(泰山の下の山)の土地を平らかにして地を祭り、石を立て文字を刻んだ。そのことばは次のようであった。

 頌徳碑を立てることが終わると、斉人の徐市らが上書して、「海中に三つの神山があり、蓬莱・方丈・盲州と申して、遷人が住んでおります。斎戒して童男童女を連れ、遷人を探したいと思います」と言った。そこで徐市をやり、童男童女数千人を出して海上に遷人を求めさした。始皇は還って膨城を通った時、斎戒して祈り、周の鼎を四水から引き上げようと千人の者に水中に入って捜さしたが、見つからなかった。ついで西南方に淮水を渡り、衡山(山名、湖南にある)に行こうとした。南郡で揚子江に浮かび、湘山祠に行ったところ、大風にあい、舟が覆えりそうになった。主上は博士に、「湘君祠とは誰を祭ってあるのか」と問うと、博士は、「堯帝の女で、舜帝の妃を葬ったものと伝えております」とこたえた。始皇は大いに怒って、罪人三千人を使い、湘山の樹をみな伐って禿げ山にした。そして南郡から武関(陝西・商南の北)を通って咸陽に帰った。