文帝崩御

文景の治
呂氏の粛清後に皇帝として即位したのが代王であった劉恒(文帝)である。
秦滅亡から漢建国までの8年に及ぶ長い内戦状態は国力を激しく疲弊させ、一般民の多くが生業を失った。これに対して文帝は民力の回復に努め、農業を奨励し、田租をそれまでの半分の30分の1税に改め、貧窮した者には国庫を開いて援助し、肉刑を禁じ、その代わりに労働刑を課した。また自ら倹約に取り組み、自らの身の回りを質素にし、官員の数を減らした。
紀元前157年に文帝は崩御。この時に文帝は新しく陵を築かず、金銀を陪葬せず、その喪も3日で明けるように遺言した。その跡を劉啓(景帝)が継ぐ。景帝もまた基本的に文帝と同じ政治姿勢で臨み、民力の回復に努めた。その結果、倉庫は食べきれない食糧が溢れ、銅銭に通した紐が腐ってしまうほどに国庫に積み上げられたと言う。実際の数字からも国力の回復は明らかで、例えば曹参が領地として与えられた平陽は当初は1万6千戸であったのがこの時代には4万戸に達していた。この2人の治世を讃えて文景の治と呼ぶ。
国力の回復と共に、諸侯王の勢力の増大が新たな問題として浮上した。また、塩や鉄製品を売り捌く商人や、国家の物資輸送に携る商業活動も活発化し商人の経済力が増大した。物を生産せず巨利を得る商人に対して、商業を抑え込んで農業を涵養することを提言したのが文帝期の賈誼であり、景帝期の晁錯であった。文帝の観農政策は賈誼の提言に従ったものである。
生産の回復は中央の勢力を増大させたが、同時に諸侯王の勢力も増大させた。諸侯国は中央朝廷と同じように官吏を置き、政治も財政も軍事もある程度の自治権が認められていた。これを抑圧することを提言したのが晁錯である。晁錯は諸侯王の過誤を見つけてはこれを口実に領地を没収していき、諸侯王の勢力を削りにかかった。これに対して諸侯王側も反発し、呉王劉濞が中心となって紀元前154年に呉楚七国の乱を起こす。この乱は漢を東西に分ける大規模な反乱だったが周亜夫らの活躍により半年で鎮圧される。
これ以後、諸侯王は財政権・官吏任命権などを取り上げられ、諸侯王は領地に応じた収入を受け取るだけの存在になり、封国を支配する存在ではなくなった。これにより郡国制はほぼ郡県制と変わりなくなり、漢の中央集権体制が確立された。