第10代 崇神天皇 前97年1月13日〜前30年12月5日

古事記 中の卷
三、崇神天皇

后妃と皇子女
――帝紀の前半と見られる部分である。――
 イマキイリ彦イニヱの命(崇神天皇)、大和の師木しきの水垣の宮においでになつて天下をお治めなさいました。
 この天皇は、木の國の造のアラカハトベの女のトホツアユメマクハシ姫と結婚してお生みになつた御子はトヨキイリ彦の命とトヨスキイリ姫の命お二方です。また尾張の連の祖先のオホアマ姫と結婚してお生みになつた御子は、オホイリキの命・ヤサカノイリ彦の命・ヌナキノイリ姫の命・トホチノイリ姫の命のお四方です。また大彦おおびこの命の女のミマツ姫の命と結婚してお生みになつた御子はイクメイリ彦イサチの命・イザノマワカの命・クニカタ姫の命・チヂツクヤマト姫の命・イガ姫の命・ヤマト彦の命のお六方です。この天皇の御子たちは合わせて十二王おいでになりました。男王七人女王五人です。そのうちイクメイリ彦イサチの命は天下をお治めなさいました。次にトヨキイリ彦の命は、上毛野かみつけの・下毛野の君等の祖先です。妹のトヨスキ姫の命は伊勢の大神宮をお祭りになりました。次にオホイリキの命は能登の臣の祖先です。次にヤマト彦の命は、この王の時に始めて陵墓に人の垣を立てました。

美和の大物主
――三輪山説話として神婚説話の典型的な一つで神みわ氏、鴨氏等の祖先の物語。――
 この天皇の御世に、流行病が盛んに起つて、人民がほとんど盡きようとしました。ここに天皇は、御憂慮遊ばされて、神を祭つてお寢やすみになつた晩に、オホモノヌシの大神が御夢に顯れて仰せになるには、「かように病氣がはやるのはわたしの心である。これはオホタタネコをもつてわたしを祭らしめたならば、神のたたりが起らずに國も平和になるだろう」と仰せられました。そこで急使を四方に出してオホタタネコという人を求めた時に、河内の國のミノの村でその人を探し出して奉りました。そこで天皇は「お前は誰の子であるか」とお尋ねになりましたから、答えて言いますには「オホモノヌシの神がスヱツミミの命の女のイクタマヨリ姫と結婚して生んだ子はクシミカタの命です。その子がイヒカタスミの命、その子がタケミカヅチの命、その子がわたくしオホタタネコでございます」と申しました。そこで天皇が非常にお歡よろこびになつて仰せられるには、「天下が平ぎ人民が榮えるであろう」と仰せられて、このオホタタネコを神主かんぬしとしてミモロ山でオホモノヌシの神をお祭り申し上げました。イカガシコヲの命に命じて祭に使う皿を澤山作り、天地の神々の社をお定め申しました。また宇陀うだの墨坂すみさかの神に赤い色の楯たて矛ほこを獻り、大坂の神に墨の色の楯矛を獻り、また坂の上の神や河の瀬の神に至るまでに悉く殘るところなく幣帛へいはくを獻りました。これによつて疫病えきびようが止んで國家が平安になりました。
 このオホタタネコを神の子と知つた次第は、上に述べたイクタマヨリ姫は美しいお方でありました。ところが形姿かたち威儀いぎ竝ならびなき一人の男が夜中にたちまち來ました。そこで互に愛めでて結婚して住んでいるうちに、何程もないのにその孃子おとめが姙はらみました。そこで父母が姙娠にんしんしたことを怪しんで、その女に、「お前は自然しぜんに姙娠にんしんした。夫が無いのにどうして姙娠したのか」と尋ねましたから、答えて言うには「名も知らないりつぱな男が夜毎に來て住むほどに、自然しぜんに姙はらみました」と言いました。そこでその父母が、その人を知りたいと思つて、その女に教えましたのは、「赤土を床のほとりに散らし麻絲を針に貫いてその着物きものの裾に刺せ」と教えました。依つて教えた通りにして、朝になつて見れば、針をつけた麻は戸の鉤穴かぎあなから貫け通つて、殘つた麻はただ三輪だけでした。そこで鉤穴から出たことを知つて絲をたよりに尋ねて行きましたら、三輪山に行つて神の社に留まりました。そこで神の御子であるとは知つたのです。その麻の三輪殘つたのによつて其處を三輪と言うのです。このオホタタネコの命は、神みわの君・鴨の君の祖先です。

將軍の派遣
――いわゆる四道將軍の派遣の物語。但しヒコイマスの王を、日本書紀では、その子丹波のミチヌシの命とし、またキビツ彦を西の道に遣したとある。――
 またこの御世に大彦の命をば越こしの道に遣し、その子のタケヌナカハワケの命を東方の諸國に遣して從わない人々を平定せしめ、またヒコイマスの王を丹波の國に遣してクガミミのミカサという人を討たしめました。その大彦の命が越の國においでになる時に、裳もを穿はいた女が山城やましろのヘラ坂に立つて歌つて言うには、

御眞木入日子さまは、
御自分の命を人知れず殺そうと、
背後うしろの入口から行き違ちがい
前の入口から行き違い
窺のぞいているのも知らないで、
御眞木入日子さまは。

と歌いました。そこで大彦の命が怪しいことを言うと思つて、馬を返してその孃子に、「あなたの言うことはどういうことですか」と尋ねましたら、「わたくしは何も申しません。ただ歌を歌つただけです」と答えて、行く方も見せずに消えてしまいました。依つて大彦の命は更に還つて天皇に申し上げた時に、仰せられるには、「これは思うに、山城の國に赴任したタケハニヤスの王が惡い心を起したしるしでありましよう。伯父上、軍を興して行つていらつしやい」と仰せになつて、丸邇わにの臣の祖先のヒコクニブクの命を副えてお遣しになりました、その時に丸邇坂わにさかに清淨な瓶を据えてお祭をして行きました。
 さて山城のワカラ河に行きました時に、果してタケハニヤスの王が軍を興して待つており、互に河を挾んで對むかい立つて挑いどみ合いました。それで其處の名をイドミというのです。今ではイヅミと言つております。ここにヒコクニブクの命が「まず、そちらから清め矢を放て」と言いますと、タケハニヤスの王が射ましたけれども、中あてることができませんでした。しかるにヒコクニブクの命の放つた矢はタケハニヤスの王に射中いあてて死にましたので、その軍が悉く破れて逃げ散りました。依つて逃げる軍を追い攻めて、クスバの渡しに行きました時に、皆攻め苦しめられたので屎くそが出て褌はかまにかかりました。そこで其處の名をクソバカマというのですが、今はクスバと言つております。またその逃げる軍を待ち受けて斬りましたから、鵜うのように河に浮きました。依つてその河を鵜河うがわといいます。またその兵士を斬り屠ほおりましたから、其處の名をハフリゾノといいます。かように平定し終つて、朝廷に參つて御返事申し上げました。
 かくて大彦の命は前の命令通りに越の國にまいりました。ここに東の方から遣わされたタケヌナカハワケの命は、その父の大彦の命と會津あいずで行き遇いましたから、其處を會津あいずというのです。ここにおいて、それぞれに遣わされた國の政を終えて御返事申し上げました。かくして天下が平かになり、人民は富み榮えました。ここにはじめて男の弓矢で得た獲物や女の手藝の品々を貢たてまつらしめました。そこでその御世を讚たたえて初めての國をお治めになつたミマキの天皇と申し上げます。またこの御世に依網よさみの池を作り、また輕かるの酒折さかおりの池を作りました。天皇は御年百六十八歳、戊寅つちのえとらの年の十二月にお隱れになりました。御陵は山の邊の道の勾まがりの岡の上にあります。


崇神天皇開化天皇10年(紀元前148年) - 崇神天皇68年12月5日(紀元前29年1月9日))は、『古事記』『日本書紀』に記される第10代天皇(在位:崇神天皇元年1月13日(紀元前97年2月17日) - 同68年12月5日(紀元前29年1月9日))。和風諡号『紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇。また、御肇國天皇と称えられる。『記』では御真木入日子印恵命である。現代日本の学術上、実在可能性が見込める初めての天皇であると言われている。