第11代 垂仁天皇 前29年1月2日〜70年7月14日

日本書紀 巻第六 垂仁天皇 活目入彦五十狭茅天皇
 元年春一月二日、皇太子は皇位につかれた。


古事記 中の卷
四、垂仁天皇
后妃と皇子女
 イクメイリ彦イサチの命(垂仁天皇)、大和の師木しきの玉垣の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇、サホ彦の命の妹のサハヂ姫の命と結婚してお生うみになつた御子みこはホムツワケの命お一方です。また丹波たんばのヒコタタスミチノウシの王の女のヒバス姫の命と結婚してお生みになつた御子はイニシキノイリ彦の命・オホタラシ彦オシロワケの命・オホナカツ彦の命・ヤマト姫の命・ワカキノイリ彦の命のお五方です。またそのヒバス姫の命の妹、ヌバタノイリ姫の命と結婚してお生みになつた御子はヌタラシワケの命・イガタラシ彦の命のお二方です。またそのヌバタノイリ姫の命の妹のアザミノイリ姫の命と結婚してお生みになつた御子はイコバヤワケの命・アザミツ姫の命のお二方です。またオホツツキタリネの王の女のカグヤ姫の命と結婚してお生みになつた御子はヲナベの王お一方です。また山代やましろの大國おおくにのフチの女のカリバタトベと結婚してお生みになつた御子はオチワケの王・イカタラシ彦の王・イトシワケの王のお三方です。またその大國のフチの女のオトカリバタトベと結婚して、お生みになつた御子は、イハツクワケの王・イハツク姫の命またの名はフタヂノイリ姫の命のお二方です。すべてこの天皇の皇子たちは十六王おいでになりました。男王十三人、女王三人です。
 その中でオホタラシ彦オシロワケの命は、天下をお治めなさいました。御身おみの長さ一丈二寸、御脛おんはぎの長さ四尺一寸ございました。次にイニシキノイリ彦の命は、血沼ちぬの池・狹山さやまの池を作り、また日下くさかの高津たかつの池をお作りになりました。また鳥取ととりの河上かわかみの宮においでになつて大刀一千振ふりをお作りになつて、これを石上いそのかみの神宮じんぐうにお納おさめなさいました。そこでその宮においでになつて河上部をお定めになりました。次にオホナカツ彦の命は、山邊の別・三枝さきくさの別・稻木の別・阿太の別・尾張の國の三野の別・吉備の石无いわなしの別・許呂母ころもの別・高巣鹿たかすかの別・飛鳥の君・牟禮の別等の祖先です。次にヤマト姫の命は伊勢の大神宮をお祭りなさいました。次にイコバヤワケの王は、沙本の穴本部あなほべの別の祖先です。次にアザミツ姫の命は、イナセ彦の王に嫁ぎました。次にオチワケの王は、小目おめの山の君・三川の衣の君の祖先です。次にイカタラシ彦の王は、春日の山の君・高志こしの池の君・春日部の君の祖先です。次にイトシワケの王は、子がありませんでしたので、子の代りとして伊登志部を定めました。次にイハツクワケの王は羽咋はくいの君・三尾の君の祖先です。次にフタヂノイリ姫の命はヤマトタケルの命の妃きさきになりました。

サホ彦の叛亂
――サホ彦は天皇を弑殺しようとした叛逆者であるが、その子孫は、日下部の連、甲斐の國の造等として榮えている。要するに一の物語であつて、それが天皇の記に結びついたものと見るべきである。後に出る大山守の命の物語も同樣である。――
 この天皇、サホ姫を皇后になさいました時に、サホ姫の命の兄のサホ彦の王が妹に向つて「夫と兄とはどちらが大事であるか」と問いましたから、「兄が大事です」とお答えになりました。そこでサホ彦の王が謀をたくらんで、「あなたがほんとうにわたしを大事にお思いになるなら、あなたとわたしとで天下を治めよう」と言つて、色濃く染めた紐のついている小刀を作つて、その妹に授けて、「この刀で天皇の眠つておいでになるところをお刺し申せ」と言いました。しかるに天皇はその謀をお知り遊ばされず、皇后の膝を枕としてお寢やすみになりました。そこでその皇后は紐のついた小刀をもつて天皇のお頸くびをお刺ししようとして、三度振りましたけれども、哀かなしい情に堪えないでお頸をお刺し申さないで、お泣きになる涙が天皇のお顏の上に落ち流れました。そこで天皇が驚いてお起ちになつて、皇后にお尋ねになるには、「わたしは不思議な夢を見た。サホの方から俄雨が降つて來て、急に顏を沾ぬらした。また錦色にしきいろの小蛇がわたしの頸くびに纏まといついた。こういう夢は何のあらわれだろうか」とお尋ねになりました。そこでその皇后が隱しきれないと思つて天皇に申し上げるには、「わたくしの兄のサホ彦の王がわたくしに、夫と兄とはどちらが大事かと尋ねました。目の前で尋ねましたので、仕方しかたがなくて、兄が大事ですと答えましたところ、わたくしに註文して、自分とお前とで天下を治めるから、天皇をお殺し申せと言つて、色濃く染めた紐をつけた小刀を作つてわたくしに渡しました。そこでお頸をお刺し申そうとして三度振りましたけれども、哀かなしみの情がたちまちに起つてお刺し申すことができないで、泣きました涙がお顏を沾ぬらしました。きつとこのあらわれでございましよう」と申しました。
 そこで天皇は「わたしはあぶなく欺あざむかれるところだつた」と仰せになつて、軍を起してサホ彦の王をお撃ちになる時、その王が稻の城を作つて待つて戰いました。この時、サホ姫の命は堪え得ないで、後の門から逃げてその城におはいりになりました。
 この時にその皇后は姙娠にんしんしておいでになり、またお愛し遊ばされていることがもう三年も經つていたので、軍を返して、俄にお攻めになりませんでした。かように延びている間に御子がお生まれになりました。そこでその御子を出して城の外において、天皇に申し上げますには、「もしこの御子をば天皇の御子と思しめすならばお育て遊ばせ」と申さしめました。ここで天皇は「兄には恨みがあるが、皇后に對する愛は變らない」と仰せられて、皇后を得られようとする御心がありました。そこで軍隊の中から敏捷な人を選り集めて仰せになるには、「その御子を取る時にその母君をも奪い取れ。御髮でも御手でも掴まえ次第に掴んで引き出し申せ」と仰せられました。しかるに皇后はあらかじめ天皇の御心の程をお知りになつて、悉く髮をお剃りになり、その髮でお頭を覆おおい、また玉の緒を腐らせて御手に三重お纏きになり、また酒でお召物を腐らせて、完全なお召物のようにして著ておいでになりました。かように準備をして御子をお抱きになつて城の外にお出になりました。そこで力士たちがその御子をお取り申し上げて、その母君をもお取り申そうとして、御髮を取れば御髮がぬけ落ち、御手を握れば玉の緒が絶え、お召物を握ればお召物が破れました。こういう次第で御子を取ることはできましたが、母君を取ることができませんでした。その兵士たちが還つて來て申しましたには、「御髮が自然に落ち、お召物は破れ易く、御手に纏いておいでになる玉の緒も切れましたので、母君をばお取り申しません。御子は取つて參りました」と申しました。そこで天皇は非常に殘念がつて、玉を作つた人たちをお憎しみになつて、その領地を皆お奪とりになりました。それで諺ことわざに、「處ところを得ない玉作たまつくりだ」というのです。
 また天皇がその皇后に仰せられるには、「すべて子この名は母が附けるものであるが、この御子の名前を何としたらよかろうか」と仰せられました。そこでお答え申し上げるには、「今稻の城を燒く時に炎の中でお生まれになりましたから、その御子のお名前はホムチワケの御子とお附け申しましよう」と申しました。また「どのようにしてお育て申そうか」と仰せられましたところ、「乳母を定め御養育掛りをきめて御養育申し上げましよう」と申しました。依つてその皇后の申されたようにお育て申しました。またその皇后に「あなたの結び堅めた衣の紐は誰が解くべきであるか」とお尋ねになりましたから、「丹波のヒコタタスミチノウシの王の女の兄姫えひめ・弟姫おとひめという二人の女王は、淨らかな民でありますからお使い遊ばしませ」と申しました。かくて遂にそのサホ彦の王を討たれた時に、皇后も共にお隱れになりました。

ホムチワケの御子
――種々の要素の結合している物語であるが、出雲の神のたたりが中心となつている。ヒナガ姫の部分は、特に結びつけたものの感が深い。――
 かくてその御子をお連れ申し上げて遊ぶ有樣は、尾張の相津にあつた二俣ふたまたの杉をもつて二俣の小舟を作つて、持ち上つて來て、大和の市師いちしの池、輕かるの池に浮べて遊びました。この御子は、長い鬢が胸の前に至るまでも物をしかと仰せられません。ただ大空を鶴が鳴き渡つたのをお聞きになつて始めて「あぎ」と言われました。そこで山邊やまべのオホタカという人を遣つて、その鳥を取らせました。ここにその人が鳥を追い尋ねて紀の國から播磨の國に至り、追つて因幡いなばの國に越えて行き、丹波の國・但馬の國に行き、東の方に追いつて近江の國に至り、美濃の國に越え、尾張の國から傳わつて信濃の國に追い、遂に越こしの國に行つて、ワナミの水門みなとで罠わなを張つてその鳥を取つて持つて來て獻りました。そこでその水門みなとをワナミの水門とはいうのです。さてその鳥を御覽になつて、物を言おうとお思いになるが、思い通りに言われることはありませんでした。
 そこで天皇が御心配遊ばされてお寢やすみになつている時に、御夢に神のおさとしをお得になりました。それは「わたしの御殿を天皇の宮殿のように造つたなら、御子がきつと物を言うだろう」と、かように夢に御覽になつて、そこで太卜ふとまにの法で占いをして、これはどの神の御心であろうかと求めたところ、その祟たたりは出雲の大神の御心でした。依つてその御子をしてその大神の宮を拜ましめにお遣りになろうとする時に、誰を副えたらよかろうかと占いましたら、アケタツの王が占いに合いました。依つてアケタツの王に仰せて誓言を申さしめなさいました。「この大神を拜むことによつて誠にその驗があるならば、この鷺の巣の池の樹に住んでいる鷺が我が誓によつて落ちよ」かように仰せられた時にその鷺が池に落ちて死にました。また「活きよ」と誓をお立てになりましたら活きました。またアマカシの埼さきの廣葉のりつぱなカシの木を誓を立てて枯らしたり活かしたりしました。それでアケタツの王に、「大和は師木しき、登美とみの豐朝倉とよあさくらのアケタツの王」という名前を下さいました。かようにしてアケタツの王とウナガミの王とお二方をその御子に副えてお遣しになる時に、奈良の道から行つたならば、跛ちんばだの盲めくらだのに遇うだろう。二上ふたかみ山の大阪の道から行つても跛や盲に遇うだろう。ただ紀伊きいの道こそは幸先さいさきのよい道であると占うらなつて出ておいでになつた時に、到る處毎に品遲部ほむじべの人民をお定めになりました。
 かくて出雲の國においでになつて、出雲の大神を拜み終つて還り上つておいでになる時に、肥ひの河の中に黒木の橋を作り、假の御殿を造つてお迎えしました。ここに出雲の臣の祖先のキヒサツミという者が、青葉の作り物を飾り立ててその河下にも立てて御食物を獻ろうとした時に、その御子が仰せられるには、「この河の下に青葉が山の姿をしているのは、山かと見れば山ではないようだ。これは出雲の石※いわくま[#「石+炯のつくり」、U+2544E、282-5]の曾その宮にお鎭まりになつているアシハラシコヲの大神をお祭り申し上げる神主の祭壇であるか」と仰せられました。そこでお伴に遣された王たちが聞いて歡び、見て喜んで、御子を檳榔あじまさの長穗ながほの宮に御案内して、急使を奉つて天皇に奏上致しました。
 そこでその御子が一夜ヒナガ姫と結婚なさいました。その時に孃子を伺のぞいて御覽になると大蛇でした。そこで見て畏れて遁げました。ここにそのヒナガ姫は心憂く思つて、海上を光らして船に乘つて追つて來るのでいよいよ畏れられて、山の峠とうげから御船を引き越させて逃げて上つておいでになりました。そこで御返事申し上げることには、「出雲の大神を拜みましたによつて、大御子が物を仰せになりますから上京して參りました」と申し上げました。そこで天皇がお歡びになつて、ウナガミの王を返して神宮を造らしめました。そこで天皇は、その御子のために鳥取部・鳥甘とりかい・品遲部ほむじべ・大湯坐おおゆえ・若湯坐をお定めになりました。

丹波の四女王
――丹波地方に傳わつた説話が取りあげられたものであろう。――
 天皇はまたその皇后サホ姫の申し上げたままに、ミチノウシの王の娘たちのヒバス姫の命・弟おと姫の命・ウタコリ姫の命・マトノ姫の命の四人をお召しになりました。しかるにヒバス姫の命・弟姫の命のお二方ふたかたはお留めになりましたが、妹のお二方は醜かつたので、故郷に返し送られました。そこでマトノ姫が耻はじて、「同じ姉妹の中で顏が醜いによつて返されることは、近所に聞えても耻はずかしい」と言つて、山城の國の相樂さがらかに行きました時に木の枝に懸かつて死のうとなさいました。そこで其處の名を懸木さがりきと言いましたのを今は相樂さがらかと言うのです。また弟國おとくにに行きました時に遂に峻けわしい淵に墮ちて死にました。そこでその地の名を墮國おちくにと言いましたが、今では弟國おとくにと言うのです。

時じくの香かぐの木の實
――タヂマモリの子孫の家に傳えられた説話。――
 また天皇、三宅の連等の祖先のタヂマモリ常世とこよの國に遣して、時じくの香かぐの木の實を求めさせなさいました。依つてタヂマモリが遂にその國に到つてその木を採つて、蔓つるの形になつているもの八本、矛ほこの形になつているもの八本を持つて參りましたところ、天皇はすでにお隱れになつておりました。そこでタヂマモリは蔓つる四本矛ほこ四本を分けて皇后樣に獻り、蔓四本矛四本を天皇の御陵のほとりに獻つて、それを捧げて叫び泣いて、「常世の國の時じくの香かぐの木の實を持つて參上致しました」と申して、遂に叫び死にました。その時じくの香の木の實というのは、今のタチバナのことです。この天皇は御年百五十三歳、御陵は菅原の御立野みたちのの中にあります。
 またその皇后ヒバス姫の命の時に、石棺作りをお定めになり、また土師部はにしべをお定めになりました。この皇后は狹木の寺間の陵にお葬り申しあげました。


崇神二十九年(前69年)一月一日 http://d.hatena.ne.jp/MYTH/00690101
六十八年(前30年)冬十二月   http://d.hatena.ne.jp/MYTH/00301201
元年(前29年)春一月二日
冬十月十一日          http://d.hatena.ne.jp/MYTH/00291011
十一月二日           http://d.hatena.ne.jp/MYTH/00291102
二年(前28年)春二月九日    http://d.hatena.ne.jp/MYTH/00280209
冬十月             http://d.hatena.ne.jp/MYTH/00281001
三年(前27年)春三月      http://d.hatena.ne.jp/MYTH/00270301
四年(前26年)秋九月二十三日  http://d.hatena.ne.jp/MYTH/00260923
五年(前25年)冬十月一日    http://d.hatena.ne.jp/MYTH/00251001
七年(前23年)秋七月七日    http://d.hatena.ne.jp/MYTH/00230707
十五年(前15年)春二月十日   http://d.hatena.ne.jp/MYTH/00150210
秋八月一日           http://d.hatena.ne.jp/MYTH/00150801
二十三年(前7年)秋九月二日  http://d.hatena.ne.jp/MYTH/00070902
冬十月八日           http://d.hatena.ne.jp/MYTH/00071008
十一月二日           http://d.hatena.ne.jp/MYTH/00071102
二十五年(前5年)春二月八日  http://d.hatena.ne.jp/MYTH/00050208
三月十日            http://d.hatena.ne.jp/MYTH/00050310
二十七年(前3年)秋八月七日  http://d.hatena.ne.jp/MYTH/00030807
二十八年(前2年)冬十月五日  http://d.hatena.ne.jp/MYTH/00021005
十一月二日           http://d.hatena.ne.jp/MYTH/00021102
三十年(1年)春一月六日    http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/00010106
三十二年(3年)秋七月六日   http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/00030706
三十四年(5年)春三月二日   http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/00050302
三十五年(6年)秋九月     http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/00060901
三十七年(8年)春一月一日   http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/00080101
三十九年(10年)冬十月     http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/00101001
八十七年(58年)春二月五日   http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/00580205
八十八年(59年)秋七月十日   http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/00590710
九十年(61年)春二月一日    http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/00610201
九十九年(70年)秋七月一日   http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/00700701
景行元年(71年)春三月十二日  http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/00710312


垂仁天皇崇神天皇29年1月1日(紀元前69年1月27日) - 垂仁天皇99年7月14日(70年8月8日))は第11代天皇(在位:垂仁天皇元年1月2日(紀元前29年2月4日) - 垂仁天皇99年7月14日(70年8月8日))。活目入彦五十狭茅尊・活目尊等と称され、『古事記』には「伊久米伊理毘古伊佐知命」、『常陸国風土記』には「伊久米天皇」、『令集解』所引「古記」に「生目天皇」、『上宮記逸文に「伊久牟尼利比古大王」と見える。『日本書紀』、『古事記』に見える事績は総じて起源譚の性格が強いとして、その史実性を疑問視する説もある。